周辺幻

沖の監視

フルマラソンにエントリー

 土曜の午後、陸上競技場で前日受付を済ませた時、新潟県柏崎市の天気は荒れていた。日本海から強烈な風が吹き、木々はしなり、海岸線を歩く団体職員の帽子を吹き飛ばした。横殴りの激しい雨が降り、注意警報が町に流れた。県外からやってきたランナーは、ゼッケンと大会パンフレットが入った銀のビニール袋を片手に戸惑いの笑みをこぼしていた。僕は彼らに共感し、頭の中で、勝手に返答する。

「ここに住んでいる僕も驚いています。こんな風の中、走るなんてやめましょう」


 だが、大会当日の10月28日、日曜日は晴れていた。走り終えた今、冷静になって考えると「晴れ」と言い切ってしまっていいものか、非常に微妙なところではあったけれど、市長の挨拶でも「晴天に恵まれ」と出たように(ほとんど聞いていなかったのですがニュアンス的には絶対に言ってました)おそらく土曜日の強風を体験しているランナーは確実に「晴れ」と認識していた。とりあえずこの時点で、42、195キロ走ることへの機運は高まった。常識的な天候で、僕は地元の海岸線を走ることができる。夏盛りの激しい太陽もない。雪も降らない。原子力発電所についての目立ったニュースもない。これは、もしやランナーが望んでいたベストな気候かもしれない。

 

 フルマラソンに初挑戦ということは、僕にとって「マラソン大会」なるものを体験するのも初めてである。大抵は、10キロ走やハーフマラソンに出場し、段階を踏んでフルマラソンに挑むのが適切なのだと知ったのは、すでにエントリーを済ませたあとの8月頃だった。だが、僕の当時の心象としては「どうせフルマラソンを目標にしてるんだから」「走りきれなくとも、どこでリタイアしたのかというデータが得られるから良し」という感じで、向こう見ずに、エントリー料金の6800円を支払い、悦に浸っていた。

 

 僕が走り始めたのは、転職を機に地元へ戻ってきてからだ。1月後半に前職を辞し、アパートを急ピッチで引き上げ、夜行バスに乗って池袋から柏崎へ帰った。ひどい生活だった。貯金はゼロで、室内の家具をリサイクル業者に引き取ってもらう金も払えなかった。部屋から退去するために母から金を借りた。それなのにクレジットカードでニンテンドースイッチゼルダの伝説を購入し、会社を辞めた後の二週間ぶっ通しでプレイした。東京で暮らしたあの部屋はホコリを吸った布団と煙草の匂いでどうしようもなかった。板橋の路地にある家賃五万の木造二階建てアパートは、通りに面していて、夜中でも人の声が聞こえた。僕の部屋は101号室で、1階の車道側にあるものだから、壁一枚隔てて路地と隣接しているようなものだった。アパートの隣が飲み屋で、酔っ払いの歌を夜中によく聞いた。部屋の中でギターで鳴らせば、僕の弾く音程のずれたマイナーコードが通りへと響いた。販売の仕事は、苦手ではなかったけれど、きつかった。家へ帰ってくるのは夜の9時40分から11時の間。出勤は9時で、朝電車に乗り込む時刻は7時35分。僕は7時29分に起きていた。ドアを開けてから脇目も振らず走れば、臨時乗車口が平日の朝7時から8時の間は空いているので、家を出て2分足らずで東武東上線に乗り込むことができた。ワイシャツもスーツも急いで袖を通すので、いつもシワが寄っていた。ネクタイはかばんの中に入れておき、池袋から乗り換えた西武池袋線で締めていた。スニーカーを履いて家を出て、職場でロッカーの中に放り込んである革靴に履き替えた。

 

 特急電車が懐かしい。あの会社でレッドアロー号をいちばん利用したのは僕だろう。正確な時刻はもう思い出せないけれど、8時10分のレッドアローに乗り込めば、部屋にいれる時間が10分ほど伸びたのだ。朝の10分。これを確保できるなら、当時の僕に500円は安かった。レッドアローに乗ろうと決めた日は、池袋での動きがやや忙しなくなる。まず、東武東上線の改札を出た後、やや小走りで人の波を縫い、駅ナカのキオスクで「スポーツ報知」「フルーツ豆乳」「サンドイッチ」「おにぎり」などを買う、たいてい僕の定期券には2000円以上チャージしてあるので、会計はそれで済ませる。それを買ったあとに、また走り西武池袋線のホームを目指す。東武東上線から西武池袋線改札の間は意外と距離があり、ぼーっと歩いていると平気で10分が経つ。僕が東武東上線を降りてからレッドアロー号の出発までには、確か6分ほどしか猶予がなかった。それを逃すと大幅に遅刻、もしくは店長に電話を入れ、欠勤を申し出ることになる。当日欠勤の申し出も、カウントはしていないけれど、優に20は超えているので、絶体絶命の切り札的選択になっている。だから朝の魑魅魍魎とした池袋駅構内を駆けているわけだが、それでも人間はおかしなもので、より快適な車内環境を目指して、「オムライスおにぎり」や「茶葉ロイヤルミルクティー」などを買っているわけである。「スポーツ報知」を買うのは、巨人が勝った翌日に限られてはいたが、そのうちルールが混沌としていき、連敗が立て込んでいるときはファンとして応援するためだとか理由をつけて、なんだかんだレッドアロー号へ乗るときは、かなりの確率で買うことになり、それはもう毎日買っているのとほぼ変わらないのである。となると、「レッドアロー乗車券」500円、「スポーツ報知」130円、「おにぎり・サンドイッチ各種」360円、「ドリンク」140円(なぜ僕は100円の水と150円のロイヤルミルクティーがキオスクで並んでいると、後者を選んでしまうのだろうか)が平均的な朝の通勤時の買い物金額の総計であり、これに加えて昼休み、スーパーの弁当や煙草や菓子パンを買い、ひどい時には帰りにもレッドアロー号に乗り込むのだから、会社から帰る時点で2500円ほど毎日消費していた。また、入社から半年経過してからは、夜酒も欠かさなくなり、必ず中瓶のビールを一本は開けていたから、会社に行くだけで3000円は消えていき、休日は休日で「読書」だの「映画鑑賞」だのと、いつまでたっても気分は文化的な青年でいるので、本屋でしこたま本を買ったり映画を観たりするから、当然のように預金通帳の額面はぞっとするような数字を表記していた。なお悪いことに、先にも少し触れたが、僕は遅刻と当日欠勤(連絡はしかし必ず入れる)の常習犯だったので、上司に欠勤理由を常に問われていた。その理由づくりのために、例えば欠勤が叶ったとしてもー欠勤するために欠勤報告するのだから当たり前だー病院に行って診断書を入手しなければならなかった。これが意外と高額で、平均で3000円。ひどいときは、5000円取られた。メンタル・クリニックへ行って、樹木の絵を書かされたときには、その分析結果を受け取るので、7000円近く取られた。僕は医者にいかにも患者らしい目つきと早口で、料金について文句を言ったあと、「夜眠れない」などと具体的な情緒不安定の症例を切なげに並べ立てた。

 

 仕事は、連休がほとんどなかった。土日祝、人が休んでいるときに働くのがデパートの店員だ。ゴールデンウィーク、正月、クリスマス、大型連休はセールが必ず催される。連休が恋しかった。土日、続けざまに休んでみたい。心底そう思っていた。実際、耐えきれず僕は働く社員を尻目に体調不良を理由に何度か土日休んで、神宮球場の内野席でビールをおかわりし、小林捕手の華麗な盗塁阻止に拍手を送ったりウラディミール・バレンティン選手に手を振ったりしていた。しかし、ずる休みはいつまで経ってもずる休みだ。正当に、休みたい。そんなことをずっと思っていた気がする。

 

 休みが取れたら、何をしようか。

 この命題について、考えない社会人などいるだろうか。いや、いない。

 ただ、仮に長期休暇を取得できたとしても、海外旅行へ行くような金はない。かといって、部屋で終日ゼルダに興じても、『カラマーゾフの兄弟』を読了しても、文中でわざとらしく反語表現を使ってみても、会社に所属している限りはまた職場へ戻ってくることになる。休日、どこかのタイミングで職場から電話が鳴るだろう。鳴らなくても、心の一部で着信を待っている。完璧な休日は、おそらく還暦を迎えて年金生活をしていたとて、きっと訪れることはない。何かしらの現実的杞憂、例えば来週の火曜日に総合病院へ行くとか、意地の悪い親戚が近々訪ねてくるとか、予定を抱えて大半の現代人は生活をしている。予定を失くした人間は、絶望の境地だろう。誰もいない、遠くへ行きたい。思いつくのは簡単だが、そんなアイデアはどこまでも曖昧模糊としていて、判然としない。2018年の当惑星において、未開の地などもはや存在しない。あったとして、それは強靭な意志を持った別の誰かによって開拓されるべきものなのだ。少なくとも、朝の池袋をベルトもせずに小走りで駆けるサラリーマンが、発見せしめることはない。

 

 僕はある日、一日の「理想のスケジュール」たるものをノートに書き出してみた。

 

◯朝 6時 起床。

 書き出しは滑らかだった。さらさらとペンが紙の上を走る。

◯6時20分。顔を洗って、歯を磨く。

 涙が出てくる。洗顔も歯磨きも、朝に行った記憶がここのところほとんどない。

◯7時 海岸線を走る。へえ、と思う。僕は朝早く起きて、ランニングをしたかったのか。多分、現在の生活と対極にあるスケジュールが反映されているのだろう。なおも理想は続く。

・海から上がる朝日の光を全身に浴びて、腕を力強く振り、背筋を伸ばし、後ろを振り返らずに、あほのように集中して走っている。ぴりっとした世界の大気を肌にまとわせて、誰に促される訳でもなく、みずからの習慣として海岸線を走る。

 

 「理想のスケジュール」を書くつもりだったのに、冷静に読み返してみると、それはとかく現実的なものに見えた。地元の海に擬えれば、波が引いて、人の気配が消えた9月平日の昼間の凪みたいだ。どうせならば非現実的な、実現不可能なくらい大きなものを夢想してみれば良いのに。どうやら、僕はフィクショナブルな憧れに恋い焦がれる能力をも失っていた。それはきっと歳を取ったということだ。中学時代、音楽を一緒にやっていた友人から「世界平和のために巨大な敵と戦うことになった。そのときは仕事を辞めても家族を失っても一緒に戦ってくれるかい?」みたいなどぎつい提案を受けて、その時は即答で「もちろん戦う」と返事ができた。今は果たしてどうだろう?仕事に愛情はないし、家庭を築いているわけでもないから、断る理由は特にないけれど、戦うエネルギーがそもそも欠落している気がする。どんな敵と対峙するかはわからないが、「やってやろう」という気合がなければ、ファンタジーでさえも、動き出さない。

 「新しい生活をしよう」と明確な決意が定まっていたわけではない。しかし、僕は壊れていたのだろう。東京にいる意味は、もうないと悟った。

 

 板橋のアパートを引き上げて、地元に帰ってきた僕は次の就職先が確定するまで、やらなければならないことをやろうと思った。やらなければならないことが、今の自分にとってはやりたいことに他ならない。履歴書を書いて企業に郵送し、面接のアポイントを取り付ける。市役所に行って、住民届を出す。運転免許証やマイナンバーカードの住所変更手続きを行う。東京で済ませていなかった公共ライフラインの解約連絡をする。三度目の就職活動ともろもろの行政上手続きを行いながら、同時並行で僕は部屋の片付けに取り掛かった。実家の僕の部屋には、学生時代に使っていた教科書やノートや大量の雑誌が、ロフトにうず高く積まれている。それらを紐で縛ってまとめて捨てる。埃が舞い上がり、目と喉が痛くなる。どんどん僕は捨てていく。サイズが合わなくなった洋服や、引き出しの奥で眠っていた文房具や、電池の入らない音楽プレイヤーや、集めていたストラップを捨てる。大学時代に7万円で買ったエレキギターを捨てると、タガが外れて、東京で買った書籍や洋服も、一旦実家に持ち帰ってきたというのに、かなりの量を捨ててしまった。裸で鏡の前に立ち、自分の肉体を見つめた。美容院に行って髪を切った。陰毛を刈り上げた。日誌をつけ始めた。無駄だと思う行為に赤ペンで印をつけて、改善を試みていった。酒を控えた。ネット・ファスティングをした。走り始めた。洗い物を片付け、洗濯をし、米を炊いて、家の風呂とトイレを磨く。階段と床を雑巾で拭き、庭の草を刈る。ものを捨てていっても、僕自身が変革しなければ、またものを溜め込んでいく。環境を変えたって、僕が今までの僕であるならば、何も変わらない。生まれたばかりの幼子が、白楽の邸宅にいても、板橋の路地裏にいても、泣き叫ぶのは変わらないのと同じで、クズがクズである以上、どこに行ってもクズなのだ。久しぶりに走ると、息がすぐに切れて2キロも走ることができなかった。二の腕やお腹や太ももについた贅肉がたぷたぷと揺れて、情けない気持ちになった。翌日は、筋肉痛に苛まれた。湯を張って、ぬるめの風呂に浸かりながら、痛む部位を揉んで痛みを和らげる。体をボディーソープで丹念に洗う。帰宅すると、必ずうがい・手洗いをした。1日に何度も手を洗った。休日は家族で温泉に行き、サウナで汗を流した。いいぞ、いいぞ。体内に沈殿した毒よ、さらば。東京に集う田舎者め、じゃあな。

 僕は、幸運なことに、家族ととても仲が良かった。帰るところがなかったら、どうなっていたか分からない。きっと、借金を抱えて、部屋はずっと汚かっただろう。東京に、一人、やりたくない仕事。清潔にする意図がいまいち飲み込めない。

 次の職場が決まった。職場の環境は良かった。

 午前8時半に出社し、5時半に退社。帰宅時間が早ければ、僕はもう本当になんでも良かった。気分的には、業務が死体拾いでも良かった。日暮れとともに、家路につけるならば。個人の時間が確保できるならば。

 それでも、最初のうちは、仕事に慣れていないせいか、意外と体はぐたっと疲れた。しかしそれもささやかな杞憂。6時の電車に乗って、自宅に着くのは7時前。夢みたいだった。嬉し過ぎて、体が驚いていたのかもしれない。帰宅して、家族と夕飯を食べて、洗い物をして、ゆっくり風呂に入る。テレビで巨人対広島の試合を観戦する。我が家のテレビはBSアンテナが立っているのだ。9時に、自分の部屋に入る。9時!

 嗚呼。

 以前ならば、確実に、電車の中や職場にいる頃だ。しかし今は、1日のノルマを済ませて、パジャマ姿で部屋にいる。野菜を食べた胃で。清潔な身体で。

 恵まれ過ぎている、と気を引き締める。

 外に出る。Tシャツと短パンに着替え、近所を走る。

 焦りは、消えなかった。欲しかった生活を手に入れたのに、僕はずっと緊張していた。僕は安堵するために、こっちへきたわけではないと思った。いや、正しくは逃げてきたのだ。「もう無理」その一言で、帰ってきたのだ。けれども、帰ってきたら、欲が出てきた。何かを獲得したくて、たまらなかった。

 近所を走っていると、呼吸の荒さは走り初めの頃よりだいぶ治ってきたが、体のあちこちに支障が出てきた。特に、ひざ下と太ももの裏が痛み、ランニング後は階段の昇降も難しくなる。しかし、どんどん走る距離が伸びていくのが面白くて、或る土曜日に「今日は死んでも15キロ走るのだ」と誓った。なんてったって、以前は確実に働いている曜日なのだ。走れる自由を謳歌せねばならない。しかし、12キロを超えた辺りで、左の太ももの付け根が痛くなり、どうしても足が前に進まなくなった。足を引きずりながら、なんとかして家に帰ったが、その帰り道はみじめだった。死んでも15キロ走る?誓い?

 

 正しい走り方を身につけなければならない。

 僕はフルマラソンにエントリーした。なぜエントリーしたのか、一言では言い切れないが、僕はきちんと帰ってきた意図を形にしたかったのだと思う。なにかを目に見える形で達成したかったのだ。文学や芸術の成功は、よく分からない。たぶん、賞を取ったりなんかして作品が他者に評価されたら一応の成功とは言えるだろう。では評価されるとは何か?それだけで生活ができるくらい作品が売れたなら、評価されたといえるだろう。では、素晴らしい文学、素晴らしい芸術、素晴らしい人生とは何だろうか?他者の評価を受けなくても、素晴らしいものは素晴らしいだろう。

 ずっと曖昧なものに惹きつけられていた。なぜならば、人間の観念というものが、そもそも曖昧な性質だからである。優雅な生活を送るのが人間ならば、自堕落な生活を送るのも人間だ。東京にいる間、僕をつなぎとめていたのは、自分は今人間をやっているという自覚である。会社をさぼっても、金を使い込んでも、部屋が汚くても、人間であることからは逃れられない。むしろ人間に迫っている感触さえあるのだ。「その日暮らし」「日銭稼業」「都会の喧騒」「無頼漢」こういった言葉に、病的に惹きつけられた。そのくせに、いざ憧れが現実となろうものなら、怖くてたまらなくなるのだ。

 

 マーティン・スコセッシ監督の映画『キングオブコメディ』にこんなセリフがある。

どん底であるより、一夜の王でありたい」

「一夜の王」という響きが格好いい。そして、これを言ったロバート・デ・ニーロ演じる売れないコメディアンは「どん底」にあるからこそ、「一夜の王でありたい」と表明できるのだ。例えば知らないけれど、定職についていて、平日は奥さんの手料理を食べて、幼稚園のバザーで娘の作品を観て、一定の収入があって、年末には温泉旅行へ行く。そんな充実した生活を送る中年男性が「一夜の王でありたい」などと言えるだろうか?一年で言えば、365日中364日は生ゴミみたいな生活、だからこそ1日、或る1日の夜だけは王でありたい。

 

 物事を計画立てて、進めていく連中を見下していた。そうやって、こつこつと歩み続けてろ、そしてゆっくりと良き人生とやらに近づいていけばいいさ。だけど、お前は瞬間的なほとばしる快楽を味わえない。一夜の王になることは永久に出来ない。

 ランニングに関する本を、数冊買い、参考になりそうな箇所に線を引いた。ランニングフォームで気をつける点を日誌に赤ペンで書き加え、走る前後に入念なストレッチを行うようになった。僕は怪我をするわけにはいかなかった。誓いを破るのは、もうこりごりだ。入社して2ヶ月目の給料でワイヤレスイヤホンを買った。コードレスで音楽を聴きながら走ると、意外とランニングが楽しく思えてきた。クラシック、ジャズ、レゲエ、ソウルミュージック、テクノ、いろんなジャンルを走りながら試してみたけど、やはりシンプルなロックンロールがいちばんしっくり耳に馴染む。最近解散したバンドのラストアルバムを聴きながら、時折絶叫して走る。そして、僕はゆっくりと昔のことを思い出す。

 一夜の王とか、言っていたのにな。

 

 ランニングの良い点は、当然だけれど、足を前に運び続けることにある。腕を振って、息を切らし、足を前に出す。走りやすいランニングフォームも重要なのかもしれないが、基本的にはこれが絶対的な原則である。

 僕はずっと人生に緊張していた。生活していて、いきなりハッと昔の記憶が蘇り、冷や汗をかく瞬間がたびたび訪れる。今もある。自分がしでかしたこと、それは大抵の場合、他人が一笑に付すような瑣末な事柄なのだが、当人には激烈な出来事として君臨している。トラウマは、過去へと吸い寄せる奇妙な磁力を放つが、走っていれば、過去に引き寄せられたとしても、前へ走り続けなければならない。

 会社の空き時間に覚えたてのエクセルで表を作成し、持ち帰って家の壁に貼った。走った距離、時間、ペース(1キロあたりのタイム)などを簡潔に記録するのだ。僕が走るのは平日の夜と、休日の朝。休日は時間があるので、平日より長い距離を時間をかけて走る。

 走ったあとに、いそいそとボールペンで表にデータを書き込んでいく。今はスマートフォンで、かなり細かいところまで走った道や距離が計測できるから便利だ。デジタルなのかアナログなのか分からないが、この記録の取り方が自分には合っていた。

 

 本を読むと、フルマラソンに出る1ヶ月前に30キロを走っておきましょう、と書かれていたので、逆算して計画を立てていった。当たり前だが、30キロを走るためには20キロを走らなければならないし、30キロを走るということは25キロを通過しなければならない。26キロも、27キロも。ここで一回断りを入れておくが、僕は当たり前のことを当たり前に書くのが好きだ。なぜなら当たり前のことを当たり前にやれない人間だから、書くことで確認しているのだ。きちんと積み重ねているか、と。あなたが馬鹿なら、共感してくれているかもしれない。賢い方なら、僕を哀れんでいるかもしれない。

 「20キロを走る」というのが、なかなか出来なかった。先の15キロチャレンジで、足を引きずるみじめな思いをしていたし、怪我が何より怖かった。当時の僕の心境は、走れない期間が出てしまうのがとにかく怖かったのだ。今回のフルマラソンは達成できなくとも、ランニングを中断してしまうことだけは避けたい。その気持ちの方が強かった。そして今でもこれは変わらない。

 

 そこで僕は一旦、距離を意識することをやめ、時間を基準に練習を重ねていくことにした。今週末の土曜日は、2時間走る。来週の土曜日は2時間半、次は3時間…。「LSD(ロング・スロー・ディスタンス)」という、長くゆっくり走る練習名を知ったのも、このころだったかもしれない。それまでは、練習の心構え、体のケア、ストレッチにばかり興味が向いていたから。早く走る練習と、ゆっくり時間をかける練習は分断することを意識した。平日は距離を短くして、スピードを意識する。最後の1キロは速度を上げる(「ビルド・アップ走」というらしい)。休日はスピードと距離を忘れ、とにかく時間をかけて走る。すると、練習を始めてから4ヶ月と8日目、20キロを走破することができた。走り終えた時、本当に嬉しくて「ぼくは20キロを走った」と何度も心のうちで唱えた。エクセルで作った表にやや大きく20キロと記載する。この喜びは明らかに新種の味わいだった。なんだか、僕が僕のままに、拡張されていく実感があった。ゲームでストーリーを進めるうちに、主人公の持てるアイテム数が拡張されていくのと、同じかもしれない。それを僕は実現しているのだ。

 

 9月末には30キロも走破し、いよいよ大会がある10月に突入した。仕事では、配置転換があり、僕はより地元に近い職場に移転することになり、時間的余裕もさらに生まれた。「理想のスケジュール」と唯一違うのは、朝ではなく夕方に走ることが多いことだ。職場に大きな不満はないが、それでも働くことはストレスを生む行為には違いない。ストレスなき仕事など仕事ではないと僕は信じている。僕は1日で蓄積したストレスをその日のうちに発散したかったので、夜に走ることを選んだ。作家の村上春樹は「くやしいことがあったら自分に当たれ」というのを基本方針に据えているらしい。たしか『村上さんのところ』という読者からの質問の回答集でそう答えていたはずだ。この言葉に僕はけっこう支えられていた。実際に多くの苛立ちや悲しみを、ぶつけるように僕は走っていた。黙々と息を切らしながらひとり海沿いを走っていると、なぜだかそうした負の感情は陰を潜めていくようだった。走り始めて5ヶ月も経つと、走ることがストレスの解消法になっていた。東京にいた頃は、ストレスをかき消すために休日は好きなことを好きなようにやりたい放題やっていた。町の定食屋で昼間からビールを飲んだ。女の子と遊んでいた。映画やお笑いの動画を見漁った。スマホを7時間くらい触っていた。運動とは無縁の生活。あえて言えば、町から町までの長い散歩くらいか。

 

 ここではないどこか遠くへ行きたい、というのはけっこういろんな人が賛同してくれる定型の願望だと思う。スピッツ草野正宗さんは旅には二種類あるといっている。「凧形」と「風船型」。凧形は目的地へ行ってまた戻ってくる前提の旅で、風船型は帰りのことを考えない、自由でスリリングな旅だ。僕も、ここではないどこかへ行きたいけれど、典型的な凧形で、必ず「ここ」に戻ってきたいと強く念じているタイプだ。なんなら、最寄駅を発車してすぐの電車の中で、帰ったときのことを想像しているくらいに。

 散歩はその点、理にかなっていた。隣町で歩いて、歩き疲れても電車で一駅、130円あれば戻ってこれる。疲れたら喫茶店に入ることもできる。けれど、それではややスリルに欠けるため、たとえば変哲のない平日の深夜に家を出て、駅とは反対方向の暗がりへとひたすらに歩いて行き、そのまま道に迷って疲れ切り、明け方タクシーで帰ってくる、なんてことがわりとあった。僕が還暦を迎えていたら、それは「徘徊」という二文字で片付く現象だろう。

 ここではないどこか遠くへ行きたい、けれど必ず帰ってきたい。

 20キロ、30キロ、40キロ走ることは、僕のそんな中途半端な願望を叶えてくれる、ちょっとした凧型トリップだ。且つやり遂げた、という手応えもある。危険な考え方かもしれないが、切れた息や、張りを訴える筋肉が、心のざわつきを抑制してくれている気がするのだ。

 大会前夜も、大会当日も、ほとんど緊張しなかった。

 僕は僕にやれることをやるだけだと思っていた。数字は正直だ。僕のこれまでの走行最長距離は9月30日の30キロ。ペース平均は6分40秒ほど。制限時間の5時間以内にゴールできるかは、微妙なところだ。ただ9月は月間186キロ走っている。なんとなく、大丈夫な気がする。

 

 スタート地点の陸上競技場を出て、公道を走る。

 柏崎マラソンが行われる10月28日は、富山や金沢でも大きなマラソン大会が開催されていて、これらに比べると、柏崎マラソンは圧倒的に規模が小さく、参加人数も少ない。しかし、いつもひとりで走っていた僕はたくさんのランナーを見てとても勇気付けられた。走っているのは、僕だけではないんだと思った。車道を走れるのが、気持ち良かった。僕は道路のど真ん中を走った。先日、職場の社有車を擦ってしまったストレスで車が嫌いになりかけていて「車を運転しているやつは、この素晴らしさが分からないだろうな」なんてことを走りながら考えていた。僕は舞い上がると、意味不明な挑発を天にぶつける習性を持つ。

 柏崎の中央通りを抜けて、鵜川を通り過ぎ、海岸線に出る。そこからは来た方向へ折り返し、左手に日本海、右手に市街地を望んで石地の折り返しポイントまで約20キロ走る。荒浜を通り過ぎ、柏崎刈羽原発を横目に長い坂を越えて行く。前半は6分20秒ペースを保つ計画だったが、だいたい6分ペースで走ってしまった。予定よりだいぶ早い。きっと、車道の真ん中を走る楽しさや給水ポイントや沿道からの応援にテンションが上がっていたのだろう。立ち止まらずに、水やスポーツドリンクが飲めることは非常に素晴らしいことである。マラソン大会のレビューサイトをみると、「バナナが固い」とか「トイレがわかりづらい」とか「給水ポイントが少ない」とか色々書かれていたが(たしかにそう言われりゃそうなのだが)僕は初挑戦ということで、エイドがあるだけでいちいち感動していた。地元の陸上部と思われる中学生たちが、給水ポイントで紙コップに入ったドリンクを渡してくれることに、申し訳無さすら感じていた。だって、社会人なら休日出勤ですよ。今日は日曜日。学生たちは残業申請や代休を取ることはできないだろう。

 

 20キロを超えて、石地に到着したあたりで、強烈な浜風が吹き出した。前日の風を体験しているので、それよりはまあ良心的な風速だったけれども、後半にさしかかろうとしている時にこの風は正直きつい。体も冷えるし、目を開けているとコンタクトレンズが飛んでしまいそうだし。25キロ。この辺りで、ちらほら歩く人の姿が目立ってきた。浜風もさらに強くなってきた。しかも30キロ付近では、長い上り坂が待っていて、浜風とのコンボをくらい、なかなかランナー達は苦しんでいる様子だった。

 僕は練習で30キロを超えて走ったことはない。しかし、30キロ過ぎがいちばん大事だと思っていた。ペースは予定よりもだいぶはやいが、余力を残してここまで走ってきたつもりだ。大きく(もちろん息も荒れているので心の中で)自分に言い効かせた。「ここのために走ってきたんだぞ」

 自分が試されていると思った。本でも「後半型の走り」が大事だと、高橋尚子選手を育てた小出監督が言っていた。僕は思い切って上り坂でペースを上げた。今まで抑えていた腕振りをオーバーに行い、眉間に力を入れた。坂を登りきると、びっくりした。多くのランナーが歩いていて、幅広い車道がちょっとした広場のように見えた。

 

 走ることの素晴らしさは、自分と戦えることにある。基本的に、個人競技のため、競技ランナーでもない限り、他人と戦う感覚はほぼなかった。対戦相手は、常に過去の自分であり(なんだか中学生の熱血キャプテンみたいな言い草だ)練習中に誰かを追い越したり追い越されたりする機会は、なかなかない。あったとしても、別に特段なにも思わない。というのは、追い越したとしても他のランナーと性別や年代が違うことが多かったし、僕が走り始めに追い越したランナーが、すでに20キロ走ってフラフラの状態だったりLSDの最中かもしれないし。追い越されるときも、同様の考え方で気にしない。要は、人はそれぞれのペースで走っているから、どちらが早い遅いの比較対象にならないということだ。ただ、なんだかんだ二十代男子としてのプライドを僕も持っているだろうから、何かの拍子で追い抜かれた時に戸惑いを覚えることも今後あるかもしれない。その対策として、一度体育館で「追い越される練習」というのをしておいた。早いランナーに何度も何度も追い越されても、ペースを一定に保つ練習である。仮に追い越された悔しさで、ペースアップをしたところで、どうせその走りは急ごしらえで続かないのだから、悔しさを感じたとしてもペースを乱さず、メンタルを保つ。この練習の目的はそこにある。

 

 重要なのは、抜いたの抜かれたので、一喜一憂しないことだ。

 と思っていたのだが、本番僕は完全に浮かれた。30キロで立ち止まる多くの市民ランナーを見て、色めき立ち、脳内エンドルフィン(それはなんなんだろう。精子みたいなもの?)がとくとく溢れ出ていた。これだけの人たちを僕は追い抜くんだ、そう思うとエネルギーが満ちてきて、スピードを出せた。結局、30から37キロにかけて、僕は40人抜いた。腕を振りながらもその指先は折りたたみ、人数をカウントしていた。カウントすることで走る燃料を蓄えていたのだ。38キロに差し掛かると、いよいよ胸が熱くなった。本当に僕はフルマラソンを走り切れる、掲げた目標が手中に納まりそうで、信じられなかった。こんな体験を僕はしたことがあっただろうか。

 

 大好きだった野球は中学で辞めた。大学受験は一浪の挙句、センター利用でたまたま受かった大学に決めた。浪人中はほとんど勉強をせず、伊勢佐木町のゲームセンターに入り浸っていた。大学で立ち上げた劇団は一度公演を上げた限りだ。ずっと作っていた音楽は、友達に聞かせるだけで真剣に取り組むことができなかった。やっと入った就職先は2年も経たずに辞めた。仮病を使い、再三欠勤を繰り返した。転職先は、1ヶ月持たなかった。東京で金が足らなくなると、母親に金をせびった。大切な人を傷つけて、へらへらしていた。

 

 39キロからの道のりは、ゴールが遠くて仕方がなかった。なぜこんなにゴールが遠いのか不思議だった。数字で言えばあと約3キロ、今では練習で楽に走れる距離だ。足を止めて歩くイメージが何度も頭の中で明滅していた。追い越したランナーに少しずつ抜き返され始めた。体が、動かない。童話で出てくる「だんだらぼっち」みたいな巨大生物に、両手両足をぎゅっと握られて締め付けられているみたいだ。そんなことを走りながら想像すると、その想像の馬鹿らしさでまた足を止めたくなる。あたりを見渡すと、歩いているランナーがいる。よくやったじゃないか、ここまでよく走った、あとは歩いても制限時間内にゴールはできる。「ええ、このペースなら余裕ですよ」実際に、こんな会話を歩いているランナーが交わしていた。僕はそのセリフを背中越しに聞いた。何度かレースを経験していそうな二人だった。熟練の雰囲気。無理をしないことが長く続ける秘訣、なのかもしれない。

 それでも僕は歩くわけにはいかないと思った。

 何度も作品を読んだ村上春樹。彼が望む自身の墓碑銘を思い出す。

村上春樹 作家、そしてランナー 少なくとも最後まで歩かなかった」

 自分を慰めたり、許したり、甘やかすことに、矛盾した言い方だけれど今だけは終止符を打ちたいと思った。ここで歩いてしまっては、僕が今まで過ごした日々は単なる堕落で終わってしまう。

 僕は、走る時に音楽を聴くのが好きで、ランニング用のプレイリストを作っている。それを聴きながら海岸線を走る。

 自分もギターで音楽を作るから、同年代のバンドのファーストアルバムを聴いたりすると、どんな風に曲を作ったのかな、とか色々と想像する。歌詞のことばの選び方に親近感を覚えたりもする。「ふくろうず」という2016年に解散したバンドの音楽が、41キロを超えた時に、なぜか頭に流れた。

 

 嘘をつくなよ そのまま行ったって、走るな!

 何も感じないの 墓場から 引っ張ってきたみたいな顔で 嘘をつくなよ

                            ーふくろうず『夜明け前』

 

 練習中は、音楽を聴いて走りながら、気持ちが昂ぶってボーカルと一緒になって歌ったり、楽曲を演奏するメンバーになりきって、興奮して泣いたりしていた。走ることはおまけで音楽を聴くことが目的に成り代わっていたかもしれない。実際、走ることに気が乗らない時は、走るのではなく音楽を聴きにいくのだと自分に言い聞かせていた。

 でも、この時ばかりは、走ることがメインで、音楽はきちんと副産物であり続けた。大会では、ワイヤレスイヤホンも音楽プレイヤーも携行していないのだから、当たり前なのだが。けれど、音楽は副産物として、僕の走りを内助の功のように支え鳴り続けていた。走るために僕は走っている。聞いた音楽を思い出す。当たり前のことを当たり前に書くのが好きだ。だから、ああ、思い返せばこのときにふくろうずが流れていたな、くらいの心持ちで今この文章を書いている。歌詞を引用したのは、41キロ地点の海沿いを走っている時の自分の心境と歌詞の内容がリンクしている気がしたからである。

 ふくろうずは「嘘をつくなよ」と歌っていて、僕も走りながら「嘘をつくなよ」とたびたび自分に言葉をぶつけていた。

 

 走って、息が上がって、表情が歪んでくるとそいつは現れる。

「そんな顔をしたって誰も見ていないよ。苦しいふりをして、許されようとしているのかもしれないけどな、ふりをしているんだからそれは苦しいってことにならないんだよ」

「演技のつもりかい?三文芝居だね。自分で自分を騙すことから演技は始まる。君は自分はこうですって自分にアピールしたいだけなんだよ」

「15キロを走ったみたいな顔をしているけどね、まだ11キロですよ。今はGPSで正確な数値が算出できますから。…いや、そんな風に大げさに息を切らしてさ、侘しくはならないのかい?自分は頑張っているんだと思い込むためにする努力ほど、侘しい努力はないと思うけどね」

「君の望み通り、今情熱大陸の密着カメラがついているとしようや、だけどその時はもっと君は涼しい顔をしているはずなんだけどな」

 

 僕は頭の中に、サリンジャーが書く青年みたいな人物を飼っている。練習中は、彼がたびたび僕に話しかけてきて、うざったいと思いながらも話を楽しんでいるけど、最後1キロを走る僕の前からは、どうやら彼はその身をすっかり隠し、パーティーにでも向かっているようだった。たしかに、人が走っている姿をずっと見ているなんて、退屈で仕方がないだろう。僕が走っていることは、僕以外の人には本当にどうでも良いことなのだ。

 ゴールの陸上競技場に戻ってくる。一気に、足取りが軽くなる。僕と最後に抜きつ抜かれつを繰り返していた金髪のランナーが先にゴールする。そのあと、中学生のボランティアスタッフがまたゴールテープを貼り直してくれる。ゴール。僕は右手を高く突き上げた。そのまま突き上げた右手で、左手首につけたランニングウォッチの時間を止める。スポーツドリンクを渡される。走り終えてからは、できることなら歩いて完走の余韻を楽しみたかったが、そんな余裕も力も残っていない。走り終えたランナーが集まっている近くの休憩スペースのようなところに行き、へたりと座り込み、そのまま寝転んだ。しばらくは動けず、息を漏らしながら、空を見た。どんな空の色だったかは、もう思い出せない。きっと疲れ切っていたのだ。完走者に渡される500ミリリットルのスポーツドリンクをほとんど一気に飲み干す。呼吸が落ち着くと、ゆっくり立ち上がりゆっくり歩き出す。競技場外の入り口で、参加者に配られた無料券を使い、炊き出しの豚汁を食べる。具が思ったより入っている。温かい。食べ物は基本的に温かくあって欲しい。胃を満たし、気分的にも少し余裕が生まれ、ちょっと競技場内をふらふらしていたが、もう特にやることがない。レースは終わったのだ。

僕は競技場を出た。そういえば、開会式で見た「えちゴン」という新潟のゆるキャラの姿はない。えちゴンは、どこへ帰ったのだろうか。

 

 自宅へ帰る道すがら、こんなことを思っていた。

「帰ったら、家族に車で銭湯に連れて行ってもらおう」

 その一点しか、考えていないと思う。あとは、夢の中にいるみたいに、ぼーっとしていた。ただ、赤信号では足を止めたし、足の裏に負担をかけないよう慎重に着地していた。身体は規律を重んじていた。自分のこととなると、いくらだって僕は優しくなれる。

 煙草が一本、吸いたかった。喫煙所で、胸ポケットからメビウスを取り出し、ライターで火を付ける。フィルターを深く吸い込んで、ゆっくりと鼻から煙を出す。

 もちろん気分は悪くない。あえて懸念するならば、明日は、月曜日だ。

  

 

 年齢、性別  29歳 男

 タイム    4時間29分6秒

 練習期間   4月、6月、7月1日から10月27日。約半年。

 月間走行距離 4月 不明

        6月 不明

        7月 80キロ

        8月 126キロ

        9月 186キロ

        10月140キロ(フルマラソン含む)

 大会出場経験 本大会が初挑戦

 

 

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