周辺幻

沖の監視

私の映画鑑賞

 

 ストーリーが始まると、どうにもこうにも、混乱して仕様が無い。映画館で予告編を見ている時、大概すでにうんざりしている。「はあ、今から二時間もここに座ってなくちゃならないのか」と、思っている。煙草が吸いたい。帰宅し、シャワーを浴びてパジャマに着替え、横臥する甘美な私の姿を想像する。なんで千八百円も払わねばならないのか。二時間の、座りっぱに。暗闇での拘束のために。映画館を「束の間のお昼寝タイム」なんて、捉えるほどには、私まだ老けてない。金は正当に使いたい。

 

 映画が始まる。登場人物が三名を超えると、私の脳はパンクする。劇中人物の名前など、もちろん覚えられない。顔もだいたいおんなじに見える。役者ミッキーマウスが登場人物「トム」を演じていても、ずっとミッキーと認識してしまう感じ。わかるかな?フェイ・ダナウェイ門脇麦の違いはわかるけど、マリリン・モンローグレース・ケリーは、化粧と髪型を変えたら、もしかしたらわからなくなるかもしれない。口紅の色が気になって、ストーリーはおろか、女優の演技すらまともに入ってこない。誰が誰で誰なのよ。綺麗だな、とは思えるのだが。

 

 物語はどこへ進もうとしているのか?そんなこと、知る由もない。筋がわからない。監督の意図がわからない。時系列(この言葉の意味も未だにピンとこない)がわからない。展開を懲りに凝るのはやめてほしい。モチーフがわからない。構造がわからない。カメラワークがわからない。「映画的なるもの」わからない。ヒットの理由がわからない。なぜ、映画を観るのかわからない。楽しいから?それだけじゃない。

 

 とにかく、疲れる。物語が展開していくたびに、新しい局面を迎える度に私の心は消耗していく。ハラハラ、ドキドキはいらないから、平穏をちょうだいよ。お門違いなのはわかってる。日常に飽きていて、幻想でも一波乱欲しいからここに来ているはずなのだ。でも、予告編を観る度思ってしまう。いつもの平穏がすっごく欲しい。カーテンのはためきが恋しい。なんにも起こらないで欲しい。

 鑑賞中はそんな態度を貫いているから、結局、何もかもわからないままに、映画は終わる。ライトが点灯し、観客がぞろぞろと席を立ち始める。私ものっそり立ち上がり、トイレに行って、涙を拭く。映画の内容をなんにも理解していないのに、一丁前に涙は出る。笑い声も出す。ちっと、喉が痛い。車のキーはかばんの何処だ。

 いそいそと、喫煙所に行って、映画サイトのレビューなどを携帯で見てみる。わからないことをわかるようにしてみるためだ。

 わからないままでいた方が、マシだった。

 

 先日、映画好きの夫が「映画の世界に入っていく」という表現を平気で利用していたが、彼に問いたい。それは一体どういうことだ?

 なぜなら、目を開けて映像を見ているのは、現実の私で、鑑賞中も「映画鑑賞している」という意識は常にまとわりついている。現実は忙しい。電話が鳴る、腹が減る、提出文書も溜まっている。映画の世界に入るということは、まずもって、現実の杞憂を全て片付けなければならないのではないのか?そんな人間います?何だか、揚げ足取りにもなっていないようだけれど、「映画の世界」という意味がうまく認識できない。私にとっての世界は、現実一つ。なき世界には入ることなど出来ない。また夫には哀れみの目で見られるだろうが、その感覚が本音だ。

 

 きっと、夫や大多数の映画愛好家は、現実を一旦「置いておく」能力を備えていて(その能力を私は没入する才能と呼ぶ)私にはそれが備わっていないというシンプルな話だ。ほら、目を輝かせてる機械工とか周りにいない?メカをいじっているときだけ、少年と化す男性。何かに夢中になっている姿は素敵だけれど、理解できない。人生の最重要課題は、いつだって現実にあるのだから、それをたとえ一時的にせよ、おざなりにすることなど私にはできない。これをiPhoneで書いている今も、私は画面上部のデジタル時計をちらちら眺めて、幼稚園へ娘の迎えに行く態勢を整えている。あなたもそうでしょう?今晩は何を食べるの?寒くなってきたから鍋にする?冷蔵庫に食材は揃ってますか?私もまだスーパー行ってないよ。車のキーは何処よ。ハローハロー、世界は一つだね。

 

 作り物を作っているのは、現実の人間たちだ。そんなことくらい、百も承知している。だが、それならば、そのつくっている過程を見る方が本来面白いはずである。メタ・フィクションという胡散臭い用語があるけど、ならばメタ・フィクションの作成過程を見届けたい。作り物は置いて、現実を直視しよう。生身の情熱が交錯する瞬間を目撃しようよ。今晩はテレビでテニスの試合、あるよ。

 だから、生身の情報に触れる。暗闇拘束場から抜け出して、幼稚園へゆく。カーナビに目的地を入力する。何度行っても道順が覚えられない。たぶんナビを入れなくてもたどり着くだろうけど、念には念をってやつです。夜は、「きょうの料理」で紹介していた、鳥鍋をつくる。メモ通りにつくったので、美味しい。生活に反映される知識は愛おしい。自分が一時的にアップデートされたような感じがして、たのしい。その日の私は気が大きくなり「死ぬまでにやりたいこと」などを夜、紙に書いてみた。いろいろと書く。だけど、すぐに虚しさが襲ってくる。粛々と数日が経つ。しかたなく、また映画に触れる。

 

 フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』を眺む。映画製作の様子を映し出した映画だ。メタ・フィクションってやつだ。だけど、そんな言葉は野暮だ。『アメリカの夜』は夜間に昼間のシーンを撮影するという映画用語。だから原語ではday for night。だから何だというのだろう?ジャン・ピエール=レオ、綺麗だな。役者たちが一斉に動き出す冒頭のシーン、綺麗だな。

 

 私と映画の関連性はどこにも見当たらない、バッグを引っかき回せば出てくるかな?

 映画について、解明も探求もしない。わからないことをわからないまま置いておきたい。映画タイトルの由来とか、ちょっとかじった知識を披露すれば、「わからない」という純粋な表明に、淫らな響きがこもってしまう。綺麗だな、綺麗だな、だけでは七歳の少女と変わらないけど、私はその位置を映画への距離間をきっと心地よく感じていて、いつまでも離れたくないのだ。