周辺幻

沖の監視

りんごを読了

 カテナチオ(イタリア語で閂を意味する)のように、口を閉ざすと、基本的には運や幸福は逃げて行く。ヒト上科ヒト科に属する新人として、せっかく言葉を操れるのなら、それを使わない手はない。駆使できるものは駆使をする、それが生物学上の基本的態度だ。走らないチーターなどいない。草木に紛れぬカメレオンなどいない。広い大地をサバイブするため先祖が脈絡と受け継いだ遺伝子の進化を、全動物が今日も駆使してまた今日を生きる。言葉を操れる特性をヒトが意図的に拒むことは、ともすると、生命への拒否とさえ言えるかもしれない。余計やプライドは即刻切り刻んで、中都市で腰を下ろすブロガーのように一刻も早く生きろ。インターネットが使えるのなら何故マイページをもっと更新しない?「宝の持ち腐れ」って言葉を知ってるかい?

 持てる力を注いで我々はすべからく情報発信すべきなのだ。

 書かなければならないテーマなど、腐る程溢れている。君自身のこと、君が感じたものを大いに聞かせてくれ。現在の君を形成した幼少期の原体験を聞かせてくれ。恋人に裏切られたトラウマをネットに投稿せよ。たまたまページにアクセスして読んだ誰かの共感を生んで、心を安らげるかもしれないだろう?抱え込んでいたって、グラスコーラに浸した骨のように、身を滅ぼすだけだ。アレーソス諸島で骨を撒く夢を、戦争映画の感想を、その政治信条を、最近購入したワイヤレスイヤホンの良い点と悪い点を、君のスニーカーが踏みつけるアスファルトの硬さを、うつ病から脱却した九十日間を、まっさらな青い空に浮かぶ夏の入道雲が鶏胸肉にみえた時のことを、書けば良いんだ。そのメモは机の引き出しの中で眠るために書かれたものではないだろう。ドストエフスキーバルザックディケンズも君が今日見たものを書くことは出来なかった。筆力なんて、今は意味のないことだ。語彙が乏しい?下らない。背伸びをして、爪先立ちで歩き続けることができるか?知っている言葉で表現する、それから先は先のことだ。弦に触れないことには永遠にFのコードは奏でられない。名詞1つ「りんご」だけしか知らなくても、書き続けていれば、『失われた時を求めて』よりも長い文章を書くことだって可能なんだぜ。りんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんご。

 

 永遠にリピートされる同一の単語を追い続けていると、読み手である我々がその退屈さに耐えきれなくなり、勝手に文章から脱線し、目で文章を追いかけながら物語を勝手に想像し始める。鎖のように連綿と続くりんごに、読書一人一人が色をつけ形をつけ、最後のりんごを読む頃には、「やりきった」という達成感と「なぜこんなことに時間を費やしてしまったんだ」という圧倒的虚脱があなたを襲うだろう。ただ、ふと思わされるのは、人生の性質はそもそも、本作『りんご』と非常に似たものなのではないか、というシンプルな確信である。馬鹿げているかと思うかもしれない。名前を出して賞賛することは、もしや批評家としての私の人生の終焉を意味するかもしれない。

 大いに馬鹿にしてくれ!

 この気狂いじみた職種を選んだ時点で、配給のみで生活する覚悟はできている。妻と子供がどうなるかって?知ったことか!私は私の思うことを書き連ねるために生きているし、それに背くことは即ち死を意味する。子供が退学に追い込まれても、どこにだって学びの種は落ちている。友達ならば、また会える。光の速度で星は燃える。大衆に迎合し、金を得るために文章を生成するくらいなら、ベルトコンベアを見つめ続けるーそう、カウリスマキ映画に出てくるマッチ工場の女のようにー生きる方が余程気高く暮らしていけるだろう。本書は歳をとり燻っていたコギトエルゴスムに火をつけ、『方法序説』を読み漁っていた頃の私に戻してくれた。中国のシルクロードのように果てしなく続くりんごの文字を追いかけるうちに、いくつもの時代を飛び越える。うら若き少年の尊い無知な精神を取り戻し、廃れた中年の肉体が激しく揺さぶられ、圧で筋肉が収縮していく。在りし日の少年は問いかけ続ける。

「なぁ、りんごの正体が知りたいのかい?なら、こっちへおいでよ、といっても、その醜い腹をこさえた体じゃすぐにバテちまうだろうからね。よれたシャツを着て、煙草の匂いがする指先でつまんない食事を送ってきた、代償さ。ほら、追いかけっこだ、捕まえた暁には、たらふく真っ赤な秋のりんごを食べさせてあげるよ」

 近年の風景画のような綿密な描写にはいい加減うんざりしていたところだ。文章執筆の三大悪は、コピー&ペースト、自己陶酔、そして関係者にしか分からないように書かれた仄めかしだ。Dramaturgieを排除し、世界に無関心を決め込むさもしい文章、下らない町と森の描写に物語の大半を注ぎ込み、細部まで丹念に情報を書き込んだ分だけ肝心のテーマを書き切らない、どこまでも思わせぶりな弱気で逃げ腰の小説はもうまっぴらだ!

「りんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんご」(3巻76pより引用)

 簡潔に整然と並べられたりんごには、文章の甘えや隙が一切なく、アゴタクリストフの諦観とカポーティの冷徹が備わっている。それでいて、書かれていること以上の何かが読み手の頭の中で浮かび上がってくる。小説というものが、書かれてある文章以上の広がりをみせてダイナミズムを生成するものだと仮にここに規定するのならば、その点において『りんご』は傑作と評する以外の選択肢が見当たらない。(山名彰彦 東京大学教授 読売新聞論客)

 ねっ。

 なんてことも有り得るかもしれない。いや、正確には実際に有り得てしまった。意見というものは、それが本音にせよ嘘八百にせよ書かれた時点で誕生する。山名彰彦氏はもちろん私が作り上げたまったくのデタラメの人物だが、デタラメといえども、意見は既に発表されたわけだ。

かのアリストテレスはこう言った。「人間は社会的動物である」

 いくら脳内で立派なことを考えていても、発表しなければすなわち言葉にして外部に放出しなければ、そこに一滴の価値もない。私は、「こんな風にできたらいいのになあ」と一人で漠然と願いながら、死を迎えたくはない。君も同じだろう?

 それでも君がカテナチオ的沈黙を貫きたいのなら、もちろん大いに結構だ。人のポリシーを捻じ曲げようとするほど私は自分を買ってはいない。なぜなら、文章生成は、人間固有の営為だからだ。神さえも、イエスキリストというspokespersonにアウト・プットを託したわけだ。神の教えも伝達しなければ、当然ながら消滅してしまうし、そもそも生まれては来なかっただろう。卓上に置かれた塩が、料理の味の調節を完全に君に委ねるように、誰かに気づかれなければ存在そのものが無かったことになるというわけだ。

 したがって、『りんご』のような駄文でも書かないよりは書いた方がマシなのだ。いや、マシどころじゃない。書いてしまえば、2018年は君にとっての驚異の年になる。んん?それによって、自分の文士としての評価が地に堕ちるだって?驚異の年(Annus Mirabilis)の業火に殺されるって?へっへっへっ……甘ったれるな!君の評価なんてそもそも存在していないんだ。まずは、自分が存在している、その大前提としての証明のために何かを書いた方が良いと私は主張しているのだ。『りんご』が山名教授によって取り上げられるかもしれないじゃないか。『りんご』を書いたことによって、次の作品の評価が相対的に上がるかもしれないじゃないか。『りんご』執筆中に違うことが書きたくなるかもしれないじゃないか。なぜ、君は君自身の可能性を潰す?押し黙るのは怖いからだ。想像というものは、どこまでも自分に都合よく言い聞かせる性質を持っている。その想像が、言葉にした途端にぽろぽろと粗が見えてきて剥がれ落ちてしまうことを君は知っているんだ。

 大丈夫。勇気を持ってごらん。まずは、りんごと口に出してごらんなさい。ほら、絶対的じゃないか。余計な助詞や形容詞のことを考えるから怖くなるんだ。同一単語しか使ってはならない、とあえて狂気じみた縛りを課すことは、逆に君を自由にさせる。

 さあ、書け!書け!書け!

 

 なんて、固いこと言うとすぐに顔を強張らせてしまうんだよね。最近の若者って、臆病であることを武器だと主張できる頑迷さがあるじゃないですか。書け!とか断定的なものの言い方するとね、すぐ下品な双子の姉妹が出てくるんだよ。

 

下品な妹「ええ、いやだなあ」

下品な姉「もちろん、書くことは必要だけれど、人間ってそれだけじゃないと思うんだよね。いろんな意思の表明の仕方があるっていうかさ」

下品な妹「うんうん」

下品な姉「みんな譲れない部分があって、それぞれの「正しさ」ってあるから、ただそれを押し付けることは私はしちゃいけないと思う」

下品な妹「たしかに」

 

 この会話はよく覚えておいてください。なんの文章読んだって映画みたって、当てはまる言葉なんだから。私はね、自分を麻痺させるために言葉を扱うとしても、沈黙よりかは余程価値があると思いますよ。りんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごりんごり