周辺幻

沖の監視

海馬ママ

 海馬ママは座らない。

 いつも手を動かして、せわしなく家中を駆けずり回っている。

 泥だらけになった大量のユニフォームをもみ洗いしながら、頭は今晩の献立と明日のお弁当のことを考えている。冷蔵庫の中には、野菜があふれている。かぶときゅうりとラディッシュは今日明日で使い切らなければならない。

 玄関には運動靴が、散乱している。あちこちにばらまかれた靴はどれがペアなのか一見すると、分からない。紐がほつれて、裏向きになっていて、アウトソールは泥で汚れている。短いソックスが中に挟まっているものもある。元気で、何より。靴のペアを揃えながら海馬ママは考える。洗濯の回数をあと二回増やす必要がある。スーパーに行って、オレンジジュースとおかきを買ってこようと思う。

 帰ってくると、坊ちゃんはお友達とコントローラーを握りながら、ディスプレイにくぎ付けになっている。ディスプレイの中では、桜餅みたいなピンクのまるっこい生物が、中日の吉見投手のようなクイックモーションで魔法ビームを放っている。桜餅が魔法を放つと足場が崩れ、これまた栗饅頭みたいな色のまるっこ生物が谷底へと落下していった。落下と共に、お友達は舌打ちし、コントローラーを投げだす。対照的に坊ちゃんは微動だにしない。まるで何事も起こらなかったかのよう。だけど、瞳には勝者の余裕が醸し出されている。この勝利の味は付箋に残しておく。オレンジジュースが入ったコップをトレイに乗せて、おかきと袋詰めのチョコレートを入れた容器を運び、ママは「やったね」と呼び掛けてみる。もちろん、彼から応答はない。

 ママはそのまま夕食の準備に取り掛かった。かぶを切り、れんこんといんげん豆と一緒に煮込む。きゅうりはたたきにして梅と白ゴマと和える。ラディッシュは塩水にさらして薄くスライスし、ハンバーグの横にしのばせる。かぶと油揚げの味噌汁をつくる。つやつやのご飯が炊きあがる。

 なるべく香りが充満するように調理していたつもりだけれど、坊ちゃんは駅前のラーメン屋にお友達と一緒に向かっていった。

 今晩、遅くなるらしい。パパの真似かしら。彼にも付き合いがある。

 食パンにハンバーグを挟み込み、それを食べながら机の上の用紙の束に目を通す。

 大量の用紙には、大量の空欄がプリントアウトされている。空欄があるということは、誰かがそれを埋めなければならない。空欄を放置しておくと、取り返しのつかないことになる。現住所を書いたり、出席・欠席にチェックを入れたりしている間に日は沈み、つくった夕飯をタッパーにつめて洗い物をしているとき、玄関ドアが大げさに締まる音がした。

 坊ちゃんは全速力で居間を駆け抜け、そのまま一直線に日本間の障子を突き破り、仏壇の前にスライディングで滑り込むと、息を切らしながら手を合わせ、やがて泣いた。

 坊ちゃんは友達と喧嘩をした。

 ママのことをブスだと言われ、友達の顔を一発殴ったらしい。

 結局、咆哮のように三十分間泣き通し、お風呂も入らずにそのまま倒れて横になってしまった。今日は楽しみにしていたコント番組があったのに、こんなに早く眠るだなんて予想外だ。

 今晩は忙しくなる。ここからが本番だ。

 軽自動車を運転し、駅からバスに乗って職場へと向かう。タイムカードを押して、時間をチェックする。

 朝の七時まで、ここから十一時間ノンストップだ。

 延々とベルトコンベアから流れてくる記憶にラベルを張って、厳選していく。

 

・対戦ゲームで勝ったこと→保存

・朝、お漏らしをする→廃棄

・夕飯をマクドナルドで食べる→保存

・平田くんを殴った右手の甲の感触→廃棄

 

胸ポケットにいれていた電話が鳴る。

音声をスピーカーにして、仕分けを続けながら、電話に出る。

「はい、海馬です」

「お疲れ様です、偏桃体です」

「何かありました?」

「あります。あの、Dの29番、友人を殴った記憶に関してなんですけど」

「はい、だめですか?」

「だめです」

「そこをなんとか、あの子、あれを保存していたら、かなりの時間苦しんでしまうと思うんです。どうにか偏桃体さんのお力で、今回ばかりは見逃して頂けますでしょうか」

 海馬ママは語気を強めた。コンベアのスイッチを切って、電話に集中する体制を整えた。

「いやあ、無理ですね」

「そんな、どうにか…」

「いえね、私だって、好きで保存するわけじゃないんですよ、後味も悪いですし。ただね、かけっこで一位になった記憶とか、アイちゃんのパンツが白だった、とかね都合のいいものばかり保存して、というわけにはいかないんですよ。わかるでしょう?」

「あの、わたし、パンツの件に関しては廃棄で分類したはずですけどね」

「ああ、そうでしたっけ。とにかく、D29は保存でお願いしますよ。もう、取り下げたところでどうにもできない案件ですから」

「すみません、そこをなんとか、代わりと言ってはなんですが、H354番のお漏らしは保存でもいいですから、それと取り換えるということで今回は」

「ひつこいなあんたも!」と、電話の相手はどなった。

「そうやって涙声で懇願すればどうにかなると思ってんですか。被害者面して私のことを極悪人みたいにして楽しいですか。あのね、無理なんですよ、海馬さん。今回のケースは、殴った時の触覚、相手を罵倒したときの聴覚、鼻血が垂れた視覚、ちなみに赤い鮮血ってのは特に強烈ですよ、触覚・聴覚・視覚、あ、右手についた血の匂いも嗅いでますから、嗅覚もだ、四点セットですよ。これだけ揃えばね、感情をつかさどる我々としては見過ごせない、いや、見過ごすことなど不可能です。それに、坊ちゃんはじめてじゃないですか。人を殴ることは。重要ですよ、自分のやったことを覚えていることは、今後の彼の人生のためにもね。じゃ、私も忙しいんで、これで」

 局長は、そう早口でまくし立てると電話を切った。

 工場の窓ガラスから、明け方の光が薄く差し込む。もうすぐ、朝だ。坊ちゃんは目を覚まし、また洪水のような怒涛の勢いで、思い切り記憶を連れてくる。

「急がないとな」海馬ママはそう呟くと、また作業に取り掛かった。

 

海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス

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