周辺幻

沖の監視

The World Upside Down(ディズニー映画『ノートルダムの鐘』について)

映画の中で登場人物たちが歌い踊り始めると気分が悪くなる。

思いの丈を歌や踊りで表現され、「World is beautiful」みたいな顔をされると、どうにもげんなりしてしまう。美しい男女や可愛らしい小動物や、目玉をつけたカップソーサラーが歌い踊り始めると、「そんなことは現実では起こらない」と感じて、混乱する。ウォッカを飲んで悪酔したような気分だ。
そういった映画では、現実では起こりえないことを映し出すことにより、現実を引っ張りだしているのだから、俺の鑑賞態度が間違っているのは明らかなのだけど、それでも気が悪くなるんだから仕方ない。

しかし、生きているとディズニー映画を観る状況がこんな俺にも定期的に訪れる。昨日の夜もそうだった。「ファイトクラブ」のようにディズニーを支持する人間は世界中にたくさんいるのだ。しかも、真っ当に愛されて。
俺は、「The Smiths解散のニュースに動揺を隠せずレコードショップに駆け込む少女を描いた映画」が観たかったが、家の中にもディズニーへの愛は行き渡っている。妻の推奨により『ノートルダムの鐘』という映画を観ることになった。

「冒頭15分だけでいいから見て」と妻が言う。俺は神妙な面持ちでこう答えた。

「本当に15分だけならね。映画の盛り上がりに関わらず、きっかり15分。それ以上は、ない。ディズニー映画を観ると胃痛がしてくるんだ。ディズニー映画が悪いわけじゃないよ。それは体質の問題なんだ。白菜を食べられない人に、いくら白菜漬けのおいしさを伝えても仕方ないだろ?だから15分ね。ここから先の展開が面白いんだよね、とか13分超えたあたりでほのめかしてくるのもやめてね。月曜日の退社後って、1週間のうちで一番疲れている時だからさ。シャワーとかも浴びたいし」
妻は「いいよ」とあっけなく了承した。

 

約90分後、エンドロールを観ながら俺はだいたい以下のようなことを思った。

ノートルダムの鐘』は威風堂々とした格好いい映画だった。
冒頭、中世のパリの街並みを這うように進む低いアングルから、カメラが上がって行って、屹立するノートルダム大聖堂が現れたときの、気高さをたたえた迫力に心を掴まれた。

鐘撞き男カジモド、最高裁判事のフロロー、護衛隊のフィーバス隊長という三人の男達が追いかけるジプシーの踊り子エスメランダの、とてつもない魅力。(ディズニー屈指のヒロインだと思う)。
主要人物それぞれのキャラクター造形もさることながら、エスメランダを中心とした関係性が見事としか言えない。

特に、愚者の祭りを背景としたカーニバル「ジプシー・ターヴィ」の場面は圧巻。
醜悪な者が主役になれるという逆転現象により、エスメランダに手招かれながら、大聖堂に籠っていた背むし男・カジモドにスポットライトが当たる。
そのイベントの特別感を味わいながら、主要人物たちが一堂に会し、三人の男たちがエスメランダに特別な感情を抱くきっかけも描かれていて、かつ、カジモドが外の世界の豊かさを知りながらも心に傷を負い、フロローの怒りも買ってしまうというとんでもない場面となっている。
主要人物たちの様々な種類の感情が、たえまなく、自然に、そして楽しく描かれるその手法には舌を巻いた。フロローの徹底的な悪も良い。

 

「もう15分すぎるね」という妻の言葉を無視し、
ノートルダム大聖堂のように堅牢なこの骨太の物語にくぎ付けとなった。

「風邪をひいても世界観は変わる。ゆえに世界観とは風邪の症状に過ぎない」とチェーホフは言ったけど、人の好みもそうかもね。お勧めです。

 

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