周辺幻

沖の監視

煩悩108 コンテンツリスト

1.スピッツ(バンド) 2.モーリスのアコースティックギター  3.バカタール加藤編集長時代のファミ通(ゲーム雑誌)4.マイルドセブンスーパーライト煙草の銘柄) 5.MTR(多重録音機)6.階段護岸 7.ガーゼ 8.深夜のパーキングエリア 9.コンビニエンスストアのエクレア 10.背面黒板 11.ウディ・アレン映画監督) 12.深夜のラジオ 13.田舎の広報 14.伊勢佐木モール(横浜にある商店街) 15.女子禁制の寮生活 16.ハートランド・ビール 17.『となりの山田くん』(いしいひさいち四コマ漫画) 18.ピンスポットライト 19.和室の押し入れ 20.池袋西口 21.遺失物管理所 22.シルクのパジャマ 23.『実況パワフルプロ野球』5〜10まで(ビデオゲーム 24.iPhone6Sスマートフォン 25.オールドファッション(板橋区のジャズバー。現在は閉店) 26.雄大積雲 27.小劇場 28.のぼり旗 29.ヌーヴェル・ヴァーグ(1950年代末に始まった映画運動) 30.カンニング 31.夜行バス 32.ひらがなの呼称 33.鏡 34.穂村弘歌人、エッセイスト) 35.きゅうりのサンドイッチ 36.スリークォーターの左腕 37.文化包丁 38.人気のない市民文化会館 39.クッキー生地のおかし 40.体育館でのシャトルラン 41.ロイヤル英文法 42.『ザ・スミスThe Smithsのアルバム) 43.『WALK ABOUT』(ニコラ・ルーグの映画) 44.手書きの手紙 45.明治神宮野球場 46.ファミレスの喫煙席 47.銭湯 48.前田知洋(クロースアップマジシャン) 49.ラジオ体操のスタンプカード 50.テープレコーダー 51.待ち合わせ 52.『close to you』カーペンターズのアルバム) 53.グループサウンズ 54.ピッチ上げした男性ボーカルのロックンロール 55.川の近くのアパート 56.全学共闘会議 57.ハンカチ落とし 58.戦隊シリーズの赤 59.『キャプテン』&『プレイボール』ちばあきおの漫画) 60.アキ・カウリスマキの映画 61.爆笑問題 (お笑い芸人)62.新宿マルイの屋上庭園 63.犯行声明文 64.シミュラクラ現象3つの点や線の集まりが人の顔のように見える現象)65.逆上がりの練習 66.プールサイド 67.ウイダーinゼリー(森永製菓が発売しているゼリー飲料)68.淀川長治(映画評論家) 69.背が低く気の強い女性 70.数字の「2」の造形 71.九〇年代 72.レッドアロー号西武鉄道の運行する特急電車) 73.町病院の待合室 74.桜吹雪 75.『それから』夏目漱石の小説)76.ラジアータ・ストーリーズ ビデオゲーム77.ブルー 78.『バーナード嬢曰く。施川ユウキの漫画)79.路地で嗅ぐカレーの匂い 80.日御碕 島根半島のほぼ西端に位置する岬)81.じょうろ 82.プレーリー・ドッグ 83.手作り弁当 84.レンタカーの助手席 85.新入生歓迎会 86.純喫茶のスフレ 87.『大人はわかってくれない』フランソワ・トリュフォーの映画)88.道徳の授業 89.PHP大喜利 大喜利のサイト。現在は閉鎖)90.東京都北区立中央図書館 91.おままごと 92.宮津 93.豆乳鍋 94.キャンプファイア 95.打擲 96.アンケート 97.山本直樹(漫画家)98.エリック・ホッファー(哲学者)99.『二週間の休暇』フジモトマサルの漫画)100.『車輪の下ヘルマン・ヘッセの小説)101.太宰治(作家)102.サリンジャー(作家)103.映画『卒業』のサウンドトラック 104.どん底カクテル新宿三丁目の居酒屋「どん底」の酎ハイ)105.ビル・エヴァンス(ジャズピアニスト)106.四人編成のロックバンド 107.晩夏 108.長電話

 

 

秘密と友情 (新潮文庫)

 

精神科医春日武彦さんと、歌人でエッセイストの穂村弘さんの対談本『秘密と友情』の巻末に、著者二人による「煩悩108コンテンツリスト」が掲載されています。

あなたもやってみて、こっそりと今度僕に内容をおしえてください。

音楽・映画・読書

不安である。日曜日の夕方にさしかかると、すっかり参っている。

 みんなどうやってこの不安に対処しているんだろう。不思議で仕方ない。不安で仕方ない。

 おそらくは、僕が感じている不安を、形は違えど、周りも同様に感じているには違いない。そうでなければ、今までの交流録のひとつひとつが全て夢になってしまう。不安がなければ、人じゃない。少なくとも、僕がイメージする人間像とはかけ離れているものだ。

 僕の不安の対処法は、どうやら不安というものが周辺にあるなあと気づき始めた15歳の頃から変わりなく、音楽・映画・読書である。

 中でもいちばん僕を不安の沼地のような場所から引き摺り出してくれたのは音楽で、命乞いをするように息をするようにブルーハーツスピッツを何度も何度も聞いてきた。音楽が終われば、一時的に凍結した不安はすぐに融解するものの、その一時的な凍結効果こそ何より求めていたものだ。瞬間的にハイになれたら、何度も何度もそれを味わえばいい。かくいう今もThe mamas & papasの『California Dreami'n』をspotifyで流し現実から避難している。

 音楽には即効性がある。便利だから、好き。

 薬にも、すぐに効き目があるものと何日か経過してからじわじわ効いてくるタイプがあるように、音楽・映画・読書にも効き目のタイムラグがあり、それらは異なる。音楽はかなり効き目が早く、読書は遅い。映画は場合によるけど、その中間って感じ。

 嫌なことが起き、不安が突如現出した時は、まずは即効性治療のため音楽。イヤホンを耳に装着し、速やかに音量を最大に設定。危なかった。生身の現実の音は、鋭利で、致死量の毒を持つ。だから僕のプレイリストは、開始一秒でギター・ベース・ドラムが流れ込むイントロの曲が多い。紅白で披露されたsuperflyの『フレア』のように、アカペラで始まり、だんだんと盛り上がってサビでアンサンブルが炸裂するような曲では、美しいボーカルの隙間を縫い、現実音が流れ込んでくる可能性がある。僕の処方薬として求められるのは、音の美しさよりうるささなのだ。耳をつんざくうるささ。洗練より雑味。スピード&パワー、優しさの洪水。無論、わざわざ断りを入れることもなく、フレアは素晴らしい楽曲である。

 映画は、暗闇の中で画面に注視するしかない環境が頼もしい(映画館を前提として話しています)。『時計仕掛けのオレンジ』で、不良の青年を善人に転生させるため暴力映像を四六時中強制的に観させるこわいシーンがあったが、映画という芸術は一種の拘束である。「昼間、映画館へ駆け込む奴は弱虫だ」と言ったのは確か太宰治だったが、分からなくもない。現実の迫力が、昼間の太陽が、我々は怖くてならない。一種の逃避行として、映画館へ人は駆ける。「ここではないどこか」へ、行きたい。太宰が生きた時代では映画産業が登坂で、スマートフォンで気軽に映画をつまみ食いできる現在とは、大分ニュアンスが変わってくるけれども。

 処方薬の話に戻すと、お気軽にスピーディーに提供できるわけではないのが、映画の欠点である。千八百円(おとな料金)は安くないし、都会ならまだしも田舎都市では映画館へ行くまでの一時間は長すぎる。その間に、現実に蝕まれては元も子もない。だから、音楽を聞きつつ映画館へ向かうのが、逃避の基本的なフローチャートとなる。

 最後に、読書。

 これは前2つの処方薬と大きく異なるところがある。鑑賞の姿勢である。

 音楽も映画も、セッティングさえしてしまえば、あとは受け身で良い。音楽なら目を閉じていてもいい。映画は座っているだけでいい。あとは、鑑賞者の身体へ作品側から飛び込んできてくれる。

 しかし、読書はページをめくり(紙の本の場合)文字を目で追っていかなければならない。映画も、目で画面を追っていかねばならないが、視点が固定されている分だけ、「受容」感は高まる。何より、目で追っているだけで映画はストーリーの大まかな流れは分かるけれど、読書は目で追っているだけではそこに何が書いているのか分からないことがしばしばある。読書は思考を促す行為だ。聞いてるだけ、見てるだけでは、読めないのだ。それが、しんどい。僕はページをめくりながら、印刷された黒い模様の列を目で追っているだけの状態にしばし陥る。

 不安から逃げるために手に取っているのに、患者に思考を促すなんて何事だ。

 むかつく。

 

 冒頭の投げかけに戻る。

 僕はどうやってみんな不安に対処しているんだろうと問いました。でも本当はすでに答えは出ている。僕も含めてみんな不安と同居しているのだ。生きている限り、不安を抹消することは出来ない。手提げ袋のように不安を抱え、なんとなくそれにものを詰めてみたりくしゃくしゃにしたり丸めて一旦ポケットにしまってみたりして、うまいこと不安と付き合っているのだ。

 けれども、その上で、僕は不安の抹消を諦め切れないでいる。傲慢だと思う。不安の相対で安心があるのなら、安心を冒涜している感情かもしれない。しかし、僕は単純に不安から逃れてみたい。そういう状態を体験してみたい。

 個人の不安が宇宙から抹消され、完膚なきまでになくなってしまう。そんな瞬間を十五歳の頃から待ち望んでいるし、どうやらその手がかりは、音楽・映画・読書にある気がしてならないのだ。

 

 

A Hard Day's Night (Remastered 2009)

 

 

Sketchy1巻

 浪人生の頃。今ではもう、どこまで本気だったのか分からないのだけど、手帳にこんなメモをした。

①バンドマン、②物書き、③芸人

上記以外になれなければ、自殺すること。 

 バンドも物書きも芸人も、真似事のようなことはしたけれど、結局あれから約十二年間経過し、サラリーマンとして私は今日を生きている。オフィスで紙を整理したり「各位」宛にメールを送ったりしている。時間を拘束する代償として会社は私の普通預金口座へ給料を振り込む。月末、私は額面をコンビニのATMで確認し、うれしくなったりして、そのままレジへと移動し、チョコとたばこを買う。一服。黄ばんだ前歯の隙間から甘い煙が漏れゆく。死の気配はない。メモの誓いは守られなかった。

 もちろん、メモの書き手がこれからバンドを始めたり、ものを書いたり、スクールJCAに願書郵送(今念のためJCAを検索したら「応募資格:17〜30歳までの健康な男女」だった!ぎりぎり!)することは出来る。まだメモの①②③を達成出来る可能性が残されてなくもない。みんな夢追い人。イェイ。

 しかし、このメモはおそらく早期的な職業的成功を企図して書かれたものだろう。簡潔な文面と荒々しい鉛筆の筆跡が、当時の切迫感・飢餓感・渇望感を現していて、「これから人生どうなるかなんて分からないんだよ」なんて言おうものなら、睨まれ罵られること請け合いだ。

 

 sketchy1巻には、美容師のアシスタントをしていた女の子が出てくる。彼女のときめきはありふれた種のものだけれど、ときめきが続いている間は無敵なんだから、春風を切るように速やかに、スケートボードにのめり込んでいけばいい。

 

ある日

午前七時、起床。

仕事に行く。

帰途、海岸公園に車止め夕焼け見て沈黙。上司から電話来る。

 

夕食、入浴、済ませたのち、

本棚から本9冊抜き取りベッドに潜り込む。

本には手をつけず、スマートフォンでカリスマホスト・ローランドの名言集と、ダニエル・ラドクリフのインタビュー動画と、J・Kローリングの作家へのアドバイス集を、目で追い、又吉直樹黒柳徹子のバッグの中身公開動画を視る。

23回くらい鼻をかむ。

小説執筆中の知人から、LINEが来る。

LINEを返す。「ふふふ、天才が稼働したんだ、今に見てろ」

 

カネコアヤノ『恋する惑星』の1曲目を8回聴き、2曲目を2回聴き、1曲目を9回聴き、ベランダに出て家人を警戒しつつ、喫煙。部屋に戻ると、ベッド脇に積み上げた本の表紙が目に入り、面白そうだなと思う。(『ペンギン・ハイウェイ』(森見登美彦・角川文庫))

日記を書く。

 

十一月七日(木)

 仕事に行って仕事をした。

 仕事をした日は、神様から許されたような心持ちで、息をするのが楽である。

 

 『きっとあの人は眠っているんだよ』を再読する。

 穂村さんの読書日記は、エッセイでのとろとろ具合が身を潜め、真剣な感じがする。いや、エッセイも真剣なんだろうけど、なんというか…。

 

 引用が多くて、紹介した本のほとんどは抜き書きがなされている。

 文章が下手ならば、書かなければいいし、それでも書きたければ、手練れの文章を丸写ししてりゃいいんだ。「面白かった」と云うよりも、引用で埋め尽くせば、どこが面白く感じたのかより正確に読み手に示せるし。わざわざ自分の下手な文章でストーリーや細部を噛み砕いて説明するよりか、心が動いた箇所を直截紹介した方が、余程意義があるだろう。でも、意義なんて要らない。

 

 主人公の子供の眼を通して描かれた絵本を見ては、平凡な日常の新鮮さに気付かされたり、外国人写真家が日本を撮影した写真集を開いては、なるほど、彼らにはこんな風にみえているのか、と納得したり。         

                 ー「他人の目」を借りる

 

 他人がほめた途端いつも食べていた魚肉ソーセージが「いいもの」に思えてきた、という感覚はよく分かる。テルマエロマエの面白さを伝えるには、こうやればいいのか・こうすればよかったのか。やられたー、とか言ってはしゃぐ。自分たちがふだん使っているものが、遥か昔の異国の友人に大喜びされたうれしさ。それは辺りをきちんと見渡せば、身近に転がっているうれしさだ。穂村弘は、その視点をきちんと身体に飼い慣らし、自在に披露できるひとだ。いいな。

 そして俺は短絡的に、外国人に日本文化について尋ねてまわりたくさん自国を褒めてもらおうとするタイプの番組を想う。

 

 武田百合子の『日日雑記』も昨日からめくっているので、抜き書きする。

 

 夜、六時半からS氏の仕事の打ち上げ会。安土桃山風の豪華な料理屋で、便所にさえ畳が敷いてあった。刺身、天ぷら、そのほか日本料理いろいろを食べ。ビールを沢山飲んで面白かった。奥さんが重病で死ぬかもしれないというのに来てしまったKさんは、お酒をちょっと飲んだだけでアレヨアレヨという間に酔払ってしまい。手の先から電波が出るなどといって、あの人この人の背中をさすったりし、そのうちにいなくなったと思ったら便所に寝ていた。二次会も新宿で、みんな楽しそうだった。あんまり楽しいと何か失くす。S氏は眼鏡を失くし、Nさんは一万円札を三枚失くしたそうだ。私は何も失くさなかったが、二軒目の店を出たあと、どのようにして帰ってきたのかーー。気がついたらわが家の中に佇っていたので、急いで寝た。

 翌る朝、朦朧状態の脳の底から、多分隣に坐っていた人だろう、知らない誰かの声だけが泡玉になって浮き上ってくる。(あなた、山賊のようにお笑いになられますですね。)私は山賊のように笑っていたらしい。鼠色の気持になる。

                     ー『日日雑記』

 

 安土桃山風の豪華な料理、ってのが面白い。冷ややかな目線が頼もしい。ああ、この書き手は信頼できるな、って思ってしまう。一万円札を三枚。三万円ではなくて、参萬圓でもない。一万円札を三枚と云われると、よりお札の質感がリアルになる。こんな風に書かれたら恥ずかしい。僕はN氏のように酔っ払って三万なくしたら、ばかだなって笑い飛ばされたい。

 

もし私がオールナイトニッポンのパーソナリティになったら、きっと最初は木曜二部の枠を担当することになるんだと予想しながら、まどろみ、二十五時前就寝。

 

 

ボーナスの使い道

 他人に本をオススメされても、何故か触手が伸びない。けれども、自分で選ぶ本だけでは限度がある。ここのところ同じような作品を繰り返し眺めているような気がする。本屋に入店し、くらくらっとめまいがする。たくさんの本、本、本。本の山。自分のために書かれた本を、僕は無視し続けてはないだろうか。思わず戸棚を眺める隣の客の目線を追いかけてしまう。どんな本を手に取るのだろう?自分よりもはるかに良いチョイスをしている気がする。だからといって、その客がレジカウンターに持っていった本を買おうとは思わない。自分で買う本は自分で決める。しかし……。

 そんな優柔不断だけれども贅沢で傲慢な人には特にいいと思います。

 

 福島県南相馬の書店「フルハウス」の選書サービスを利用してみました。

 用意された八十の質問に回答すると、作家の柳美里さんが本を選んで送ってくれる。僕は三万円分注文し、今日十冊の本が届きました。

 

 本が届く前は遠足を待つ子供のような気分で楽しかったし、届いた後も楽しかった。NHKの「あさイチ」で取り上げられ、応募が殺到しているみたいで気が引けたけど、頼んでよかった。8640円の写真集を買う決断は、僕一人では到底出来なかったな。

 

●送られてきた本 計十冊

 

「ふたたびの春に」和合亮一

「永在する死と生 柳美里自選作品集第一巻」柳美里

「告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実」旗手啓介

「Will I Get Married?」岡村靖幸

「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」ジュノ・ディアス

「憎むのでもなく、許すのでもなく ユダヤ人一斉検挙の夜」ポリス・シリュルニク

「雨の自然誌 RAIN A Natural and Cultural History」シンシア・バーネット

「仙厓 Sengai ユーモアあふれる禅のこころ」中山喜一郎

「わたし、お月さま」青山七恵・刀根里衣

「BIBLIOTHECA SERIE BIBLIOTHECA 3/3 VIES OF THE BOOKS 本の景色」潮田登久子

 

 

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シチリア詩人の重要な一言

「あたし、大丈夫かな……」

「いつか 親ともお別れがくるんだもんね」 

「オレも怖い……」

「うん」

「あたしたち、夜の子供たちだね」

 (『泣き虫チエ子さん 旅情編』益田ミリ 大人になるということ)より

 

 シチリア詩人は「風が気持ちいいね」と言うはずだった。

 スマホを家に置いたまま外に出て駅とは逆の方向へふらふら歩いていくと、町の明かりが寂しくなって、交通量も減っていって、ずんずん静かになって、とうとうわたしひとりだけになれた。ぽつねんと町から隔離されにゆく。別に、日常に何かときめきを見出そうと発見しようと出発するわけじゃない。コーティングされた満月の薄皮を一枚一枚丁寧に剥くために歩くわけじゃない。鈍重な夜にふさわしい行動を身体が自然と求めているだけだ。

 当面の目的地を、散歩の途中で適当にでっちあげる。それは公園のベンチだったり、コンビニエンスストアだったり、ダイドー自動販売機だったり、川べりだったりする。販売中止した「さらっとしぼったオレンジ」はどれくらいまだ売っているのかな。夜風が肌を撫で、夏だけれど涼しくて、不安な気持ちもあるけれど楽しい気持ちが勝ってる。サンダルで出たことだけ少し後悔する。ドアを開けたときはこんなに歩くと思わなかった。にょきにょき生えた夏草が素足に触れて、足の裏に小石の硬さをしかと感じる。

 このまま歩き続けていたら明日熱が出るかもしれないな。わたしは自分の身体が不機嫌になっていく感じが愉快でしょうがなかった。

 明日の事はどうだっていい、明日は明日の風が吹く、わたしは現実的な諸問題から意図的に遠ざかろうとしているのだ。

 

 川べりではさらなる風が吹いている。

 

 橋の欄干に肘をついて、月のひかりに照らされた水の膜を見つめる。あくまでも良識の範囲内で、わたしはここで停滞し、限られた時間を滅ぼしてゆく。

 人生に目的なんてないさと割り切ることは、あの冷えた果肉入りオレンジジュースのように、すきっとしていて気持ちが良いけど、あえて何か目的を見出そうとするのならば、この夜の散歩のように、歩くこと自体に目的があるといえるだろう。

 我歩自体目的。

 縮めて、漢文調にすると、ひとりの時間もムードが出る。凡庸なアイデアをそれっぽくデコレーションすることはたやすい。まがい物でも十分ムードは高まる。こんなに気持ちよくなれるのなら、毎日のようにここまで歩いて川べりに出現してやろうか。わたしは日本のイマヌエル・カント。外し忘れた腕時計見ると現在八時四十三分。夜空にポエム、かきつける。

 

 

 石原にうなる ちび蛙の賛歌

 唇すり抜ける 東の夜の風

 オレンジジュースのプルタブボートがゆく

 街灯に照らされた乳白の川を

 あゝ 風よ どこまでも吹いて!

 非常用バッグにまとめた目的意識

 持ち出す暇も与えぬように 

 

 ……夏のさなかにいた幼いわたしは群衆にまぎれていた!

 

 群衆、そしてわたし。大きな炎の周囲をリズムに合わせて手足を出し童謡を歌いながら踊る子どもたち。空は満天の星空で、いつもと違う賑やかな夜。レクリエーションで騒いだ後は、厳かにぱちぱちと舞う火の粉の音をみんなして心して聞いた。残すプログラムは「出し物の時間」のみで、おのおの地べたに三角座りをしてお喋りにいそしんでいる。午前中、ここまでみんなを運んだ大型バスはとっくに停留所へ戻っている。エンジンを切られ、ただ広い駐車場で下駄箱のように沈黙している。キャンプ場って、切り取られた空間に収納されてるみたい。まるで算数問題の無機質な図式に入り込んだみたい。今夜、誰かが殺されたらちゃんとパトカーは出動するのだろうか。電波が届かなくて助けを呼べないなんてことないよね?もしもクローズドサークルが始まったらば、学年の誰が金田一で学年の誰が美雪を演じるんだろう。

「それでは、1班のみなさん、どうぞ」と先生の声がした。

 先生が出番をうながしているのに、1班のやつらは広場の端に集まって、ごにょごにょ囁きあっている。ちゃんと準備しとけよ、とわたしは知能犯みたいな笑みを浮かべる。

 わたしの班は、意欲と教養にあふれているので、本番前にあわてて打ち合わせをするような、無様な真似はしない。サマーキャンプの数週間も前から、きちんと演劇を披露することを決定し、台本を作成し、立ち稽古を空き教室で積み、この日に臨んでいる。

 そこまできちんと準備をしていた班は、おそらく他にない。丈夫な橋が架かるには計算された図面が必要なのとおんなじで、見通しが立たなければ何かを披露する資格はない。しかし、準備をするということは、思い描く理想のイメージが生まれるということなので、その結果「うまくできるかな」「ちゃんとセリフが言えるかな」などと緊張が生まれる。わたしも現にふるえている。夜風がつめたい。身体が冷える。脆い橋は往々にして、確認不足とことなかれ主義が招く負の産物だ。やるからには、有意義な時間を群衆に提供したい。

 いち、生徒として。芸術家として。わたしの中の倫理として。

 と、むしゃぶるいを味わっていたら、ふいに周りの笑い声で意識を戻された。電車で眠りから目覚めた時のように一瞬自分がいる場所がわからなくなった。

 気がつけば演目は後半にさしかかっていた。ステージでは4班にいる野球部の連中が悪ふざけをしている。拾った木の棒をバットに見立てて、「千本ノックいくぞ」とか言いながら、顧問の先生のものまねをしている。

 ものまねに喜んでいる群衆と、ステージで楽しそうにしている子どもたちを「はあ」と半ば呆れながら見ていたら、何故だかわたしの緊張はおかしな方向に転がり出した。次はわたしの5班の出番だから、緊張がピークに達しているのかもしれないけれど。広場の隅っこに立って、視点が変わったから戸惑いを覚えているのかもしれないけれど。あれ?いつの間にステージ側に移動したんだっけ?

 落ち着け、わたし。手のひらに「人」と指でかいて飲み込む所作をしよう。緊張を屈服させるには、案外こういう古典的なおまじないが効果的だったりする。

「のりちゃん、大丈夫?」

「えっ、なにが?」

 なんだか急に、意識が遠のいて来た。

 伝わるかな。シチリア詩人の重要な一言。

 だって、まるで他の班は準備を整えていない。あまりに準備をしていなさ過ぎるのだ。それなのにみんな笑って喜んでいる。これでは、一生懸命準備をしてセリフを練習してきたわたしたちが、圧倒的に浮いてしまう。異邦人みたいに。観客からのありふれた揶揄のことばを予測するのならば、「なーに本気になっちゃってんの?」という声が聞こえてくるのは自明の理だけれどもクオリティの差は嫉妬という怪物を連れてくるのだがしかし今にして思えばたかが出し物の時間に求められるのは無邪気な子どもの発想と肩の力が抜けたその場のアドリブであって二日ばかりの夏の外泊に何をわたしは念入りにこしらえてやってきているのだろう。

 あー、帰りたい。いても立ってもいられなくなってきた。というか、というか、サマーキャンプをいちばん期待していたのは、実は、このわたしなんじゃないか。

 何をそんなに期待していた?

 冷や汗が首筋をつたう。

 それからは熱中症になったみたいに頭がぼーっとして、わたしはシチリア詩人の重要な一言を、恥ずかしくて恥ずかしくて、とうとう言い出せないまま、みんなの前で泣いて、気がつけば先生に連れられて、ぼうぜんと最後の6班のアドリブをうしろの方で鑑賞していた。6班のみなさま、ごめんなさい。先生方、心配かけてごめんなさい。そして何より、5班のみんな、ごめんなさい。恥ずかしくて顔向けできません。どうぞ、「あの泣き演技はアカデミー賞級だね」となじって揶揄って、酒の肴にしてください。

 

 ……はぁ、どうして冷や汗の記憶って、しっかり身体にこびりつくんだろう。

 あの頃わたしは、すごく頑張っていたな。夜風は確かにいいけれども、サンダルに半袖にスマホも持たずに夜の闇。寒気がしてきた。こわくなってきた。

 帰り道の赤信号も無視して家までまっすぐサンダルぺたぺた踏み歩く。信号機の赤いライトの点滅がやけに心強く感じた。ほっとして、くしゃみをひとつする。とりあえずあのコンビニまで急ごう。きっとわたしは明日の朝、よくある夏の風邪を引き、よくある欠勤報告を上司に入れるんだ。足の指がサンダルのベルトにくいこんで痛い。夜風の冷たさに腹が立ってしょうがない。プリン食べたい。腕時計が示す時刻:二時三十五分。

 

 

泣き虫チエ子さん 旅情編 (集英社文庫)

泣き虫チエ子さん 旅情編 (集英社文庫)

 

 

キム兄のワラライフ!を観ずしてしずる村上純について言及するということ

ずっと気になってはいるけれど、買わない本、というのがある。

高所得者ではないので、まず価格の問題があがる。ハードカバーで1700円を超えると、躊躇いが生まれてくる。カフカエリック・ホッファーの日記、サリンジャーの評伝。平気で5000円する。それが高いのか安いのか、僕には分からない。

 

今月のクレジットカードの精算額をアプリで確認し、価格の問題をクリアすると、

あとはようわからん自意識の問題だけが残る。「難しそやなあ」とか「面白そやけどまたの機会かなあ」とか「いてこますぞ」とか「ようけ文字がほんましっちゃかめっちゃか心の臓(しんのぞう)がたがた震えとりますさかいに」とか…

「気に食わない」とか…

その日も僕は星野源のエッセイを手に取ることなく通り過ぎレジカウンターへ岩波文庫の赤を3冊置いた。

 

本屋に行くと、ロイド・メガネをかけてシャツのボタンを一番上まで止めた文庫本片手の彼がこちらを見ている。一九八四年のビッグ・ブラザーみたいに彼は僕を見ている。歌、ダンス、コント、役者、ラジオ・パーソナリティにして物書き。人は肩書きで測れるものではないけれど、彼の肩書きは華々しくてやはりすごい才能があるんだなとふわふわ想う。

 セカンドアルバムの『エピソード』はなんべんも聞いた。「MOTHER」のネス似の少年が印象的な赤いジャケットのCD。「湯気」という曲をくりかえし聞いたのは、大学1年の秋口だった。

 彼が所属する劇団の公演も観に行った。下北沢本多劇場大人計画の公演前のBGMは、彼の弾き語りだった。劇は面白かった。二度、笑った。一緒に行った後輩の女の子も大笑いしていた。ああ、そう。

 

 星野源と言われて連想する芸人といえば、バナナマンの二人とかケンドーコバヤシとかウッチャンとか植木等とか色々候補が上がるけど、僕は断然しずる村上純の顔が浮かんでくる。

 村上純星野源をライバル視している。LIFE!のスタジオトークで相方の池田一真が話していたので間違いない。

しずる村上さんにとって、好敵手は星野源

スタジオは「別ジャンルじゃん」みたいな感じのツッコミでウッチャンがあの笑顔で柔らかく捌いてたけど、僕はかなり村上純の気持ちがわかった。痛切に。村上純の小説「青春箱」は皆さまお読みになられましたか?「青春箱」の表紙は、黒ハットにテーラードジャケット村上純が教卓みたいな箱から無表情でこちらを見据えているというもの。そういうわけで、僕は星野源村上純を重ねて考えてしまうのだ。

 

もしも高校のクラスメイトに、星野源大泉洋ムロツヨシがいたら…

あの年代の文化系の男子は、面白い=人生の価値と定義している時期が抗いようもなく存在し、例外なく高校生の僕も「つまらないって犯罪でしょ」と大森靖子みたいな思想をきっちり携えていた。

 星野源大泉洋ムロツヨシがいたら…どうしたらいいんだろう。勝手にスター達をクラスメイトにさせて、僕は対策を練っている。想像の中で僕は星野源に敵意を露わにしている。だが、新学期が終わる頃には僕は星野源に長い電話をかけ、村上純の話を嬉々として披露する。村上純は文化祭の前日、海岸で瓶のレモネード片手に真面目な顔で「明日は楽しもうよ、人生で一度きりの高校時代なんだから」と言ってきたのだ。僕は彼がどこから瓶のレモネードを入手してきたのか、あの夏不思議で仕方なかった。そのことをどうしても星野源に伝えたかった。星野源は受話器の向こうで毅然と爆笑した。

 

モテることはいくら努力してもできねえ。モテるには先天性の才能が必要で、それは顔が不細工だろうが、性格が悪かろうが、服がダサかろうが関係ない。女性の懐にいつの間にか入り、気がついたらセックスをしているというまったくもって謎の能力がこの世にはある。そして僕にはそれが微塵もない。

ー『働く男』

 

 

働く男 (文春文庫)

働く男 (文春文庫)

 

 

 

短編小説集 青春箱

短編小説集 青春箱