周辺幻

沖の監視

シチリア詩人の重要な一言

「あたし、大丈夫かな……」

「いつか 親ともお別れがくるんだもんね」 

「オレも怖い……」

「うん」

「あたしたち、夜の子供たちだね」

 (『泣き虫チエ子さん 旅情編』益田ミリ 大人になるということ)より

 

 シチリア詩人は「風が気持ちいいね」と言うはずだった。

 スマホを家に置いたまま外に出て駅とは逆の方向へふらふら歩いていくと、町の明かりが寂しくなって、交通量も減っていって、ずんずん静かになって、とうとうわたしひとりだけになれた。ぽつねんと町から隔離されにゆく。別に、日常に何かときめきを見出そうと発見しようと出発するわけじゃない。コーティングされた満月の薄皮を一枚一枚丁寧に剥くために歩くわけじゃない。鈍重な夜にふさわしい行動を身体が自然と求めているだけだ。

 当面の目的地を、散歩の途中で適当にでっちあげる。それは公園のベンチだったり、コンビニエンスストアだったり、ダイドー自動販売機だったり、川べりだったりする。販売中止した「さらっとしぼったオレンジ」はどれくらいまだ売っているのかな。夜風が肌を撫で、夏だけれど涼しくて、不安な気持ちもあるけれど楽しい気持ちが勝ってる。サンダルで出たことだけ少し後悔する。ドアを開けたときはこんなに歩くと思わなかった。にょきにょき生えた夏草が素足に触れて、足の裏に小石の硬さをしかと感じる。

 このまま歩き続けていたら明日熱が出るかもしれないな。わたしは自分の身体が不機嫌になっていく感じが愉快でしょうがなかった。

 明日の事はどうだっていい、明日は明日の風が吹く、わたしは現実的な諸問題から意図的に遠ざかろうとしているのだ。

 

 川べりではさらなる風が吹いている。

 

 橋の欄干に肘をついて、月のひかりに照らされた水の膜を見つめる。あくまでも良識の範囲内で、わたしはここで停滞し、限られた時間を滅ぼしてゆく。

 人生に目的なんてないさと割り切ることは、あの冷えた果肉入りオレンジジュースのように、すきっとしていて気持ちが良いけど、あえて何か目的を見出そうとするのならば、この夜の散歩のように、歩くこと自体に目的があるといえるだろう。

 我歩自体目的。

 縮めて、漢文調にすると、ひとりの時間もムードが出る。凡庸なアイデアをそれっぽくデコレーションすることはたやすい。まがい物でも十分ムードは高まる。こんなに気持ちよくなれるのなら、毎日のようにここまで歩いて川べりに出現してやろうか。わたしは日本のイマヌエル・カント。外し忘れた腕時計見ると現在八時四十三分。夜空にポエム、かきつける。

 

 

 石原にうなる ちび蛙の賛歌

 唇すり抜ける 東の夜の風

 オレンジジュースのプルタブボートがゆく

 街灯に照らされた乳白の川を

 あゝ 風よ どこまでも吹いて!

 非常用バッグにまとめた目的意識

 持ち出す暇も与えぬように 

 

 ……夏のさなかにいた幼いわたしは群衆にまぎれていた!

 

 群衆、そしてわたし。大きな炎の周囲をリズムに合わせて手足を出し童謡を歌いながら踊る子どもたち。空は満天の星空で、いつもと違う賑やかな夜。レクリエーションで騒いだ後は、厳かにぱちぱちと舞う火の粉の音をみんなして心して聞いた。残すプログラムは「出し物の時間」のみで、おのおの地べたに三角座りをしてお喋りにいそしんでいる。午前中、ここまでみんなを運んだ大型バスはとっくに停留所へ戻っている。エンジンを切られ、ただ広い駐車場で下駄箱のように沈黙している。キャンプ場って、切り取られた空間に収納されてるみたい。まるで算数問題の無機質な図式に入り込んだみたい。今夜、誰かが殺されたらちゃんとパトカーは出動するのだろうか。電波が届かなくて助けを呼べないなんてことないよね?もしもクローズドサークルが始まったらば、学年の誰が金田一で学年の誰が美雪を演じるんだろう。

「それでは、1班のみなさん、どうぞ」と先生の声がした。

 先生が出番をうながしているのに、1班のやつらは広場の端に集まって、ごにょごにょ囁きあっている。ちゃんと準備しとけよ、とわたしは知能犯みたいな笑みを浮かべる。

 わたしの班は、意欲と教養にあふれているので、本番前にあわてて打ち合わせをするような、無様な真似はしない。サマーキャンプの数週間も前から、きちんと演劇を披露することを決定し、台本を作成し、立ち稽古を空き教室で積み、この日に臨んでいる。

 そこまできちんと準備をしていた班は、おそらく他にない。丈夫な橋が架かるには計算された図面が必要なのとおんなじで、見通しが立たなければ何かを披露する資格はない。しかし、準備をするということは、思い描く理想のイメージが生まれるということなので、その結果「うまくできるかな」「ちゃんとセリフが言えるかな」などと緊張が生まれる。わたしも現にふるえている。夜風がつめたい。身体が冷える。脆い橋は往々にして、確認不足とことなかれ主義が招く負の産物だ。やるからには、有意義な時間を群衆に提供したい。

 いち、生徒として。芸術家として。わたしの中の倫理として。

 と、むしゃぶるいを味わっていたら、ふいに周りの笑い声で意識を戻された。電車で眠りから目覚めた時のように一瞬自分がいる場所がわからなくなった。

 気がつけば演目は後半にさしかかっていた。ステージでは4班にいる野球部の連中が悪ふざけをしている。拾った木の棒をバットに見立てて、「千本ノックいくぞ」とか言いながら、顧問の先生のものまねをしている。

 ものまねに喜んでいる群衆と、ステージで楽しそうにしている子どもたちを「はあ」と半ば呆れながら見ていたら、何故だかわたしの緊張はおかしな方向に転がり出した。次はわたしの5班の出番だから、緊張がピークに達しているのかもしれないけれど。広場の隅っこに立って、視点が変わったから戸惑いを覚えているのかもしれないけれど。あれ?いつの間にステージ側に移動したんだっけ?

 落ち着け、わたし。手のひらに「人」と指でかいて飲み込む所作をしよう。緊張を屈服させるには、案外こういう古典的なおまじないが効果的だったりする。

「のりちゃん、大丈夫?」

「えっ、なにが?」

 なんだか急に、意識が遠のいて来た。

 伝わるかな。シチリア詩人の重要な一言。

 だって、まるで他の班は準備を整えていない。あまりに準備をしていなさ過ぎるのだ。それなのにみんな笑って喜んでいる。これでは、一生懸命準備をしてセリフを練習してきたわたしたちが、圧倒的に浮いてしまう。異邦人みたいに。観客からのありふれた揶揄のことばを予測するのならば、「なーに本気になっちゃってんの?」という声が聞こえてくるのは自明の理だけれどもクオリティの差は嫉妬という怪物を連れてくるのだがしかし今にして思えばたかが出し物の時間に求められるのは無邪気な子どもの発想と肩の力が抜けたその場のアドリブであって二日ばかりの夏の外泊に何をわたしは念入りにこしらえてやってきているのだろう。

 あー、帰りたい。いても立ってもいられなくなってきた。というか、というか、サマーキャンプをいちばん期待していたのは、実は、このわたしなんじゃないか。

 何をそんなに期待していた?

 冷や汗が首筋をつたう。

 それからは熱中症になったみたいに頭がぼーっとして、わたしはシチリア詩人の重要な一言を、恥ずかしくて恥ずかしくて、とうとう言い出せないまま、みんなの前で泣いて、気がつけば先生に連れられて、ぼうぜんと最後の6班のアドリブをうしろの方で鑑賞していた。6班のみなさま、ごめんなさい。先生方、心配かけてごめんなさい。そして何より、5班のみんな、ごめんなさい。恥ずかしくて顔向けできません。どうぞ、「あの泣き演技はアカデミー賞級だね」となじって揶揄って、酒の肴にしてください。

 

 ……はぁ、どうして冷や汗の記憶って、しっかり身体にこびりつくんだろう。

 あの頃わたしは、すごく頑張っていたな。夜風は確かにいいけれども、サンダルに半袖にスマホも持たずに夜の闇。寒気がしてきた。こわくなってきた。

 帰り道の赤信号も無視して家までまっすぐサンダルぺたぺた踏み歩く。信号機の赤いライトの点滅がやけに心強く感じた。ほっとして、くしゃみをひとつする。とりあえずあのコンビニまで急ごう。きっとわたしは明日の朝、よくある夏の風邪を引き、よくある欠勤報告を上司に入れるんだ。足の指がサンダルのベルトにくいこんで痛い。夜風の冷たさに腹が立ってしょうがない。プリン食べたい。腕時計が示す時刻:二時三十五分。

 

 

泣き虫チエ子さん 旅情編 (集英社文庫)

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