周辺幻

沖の監視

ある日

午前七時、起床。

仕事に行く。

帰途、海岸公園に車止め夕焼け見て沈黙。上司から電話来る。

 

夕食、入浴、済ませたのち、

本棚から本9冊抜き取りベッドに潜り込む。

本には手をつけず、スマートフォンでカリスマホスト・ローランドの名言集と、ダニエル・ラドクリフのインタビュー動画と、J・Kローリングの作家へのアドバイス集を、目で追い、又吉直樹黒柳徹子のバッグの中身公開動画を視る。

23回くらい鼻をかむ。

小説執筆中の知人から、LINEが来る。

LINEを返す。「ふふふ、天才が稼働したんだ、今に見てろ」

 

カネコアヤノ『恋する惑星』の1曲目を8回聴き、2曲目を2回聴き、1曲目を9回聴き、ベランダに出て家人を警戒しつつ、喫煙。部屋に戻ると、ベッド脇に積み上げた本の表紙が目に入り、面白そうだなと思う。(『ペンギン・ハイウェイ』(森見登美彦・角川文庫))

日記を書く。

 

十一月七日(木)

 仕事に行って仕事をした。

 仕事をした日は、神様から許されたような心持ちで、息をするのが楽である。

 

 『きっとあの人は眠っているんだよ』を再読する。

 穂村さんの読書日記は、エッセイでのとろとろ具合が身を潜め、真剣な感じがする。いや、エッセイも真剣なんだろうけど、なんというか…。

 

 引用が多くて、紹介した本のほとんどは抜き書きがなされている。

 文章が下手ならば、書かなければいいし、それでも書きたければ、手練れの文章を丸写ししてりゃいいんだ。「面白かった」と云うよりも、引用で埋め尽くせば、どこが面白く感じたのかより正確に読み手に示せるし。わざわざ自分の下手な文章でストーリーや細部を噛み砕いて説明するよりか、心が動いた箇所を直截紹介した方が、余程意義があるだろう。でも、意義なんて要らない。

 

 主人公の子供の眼を通して描かれた絵本を見ては、平凡な日常の新鮮さに気付かされたり、外国人写真家が日本を撮影した写真集を開いては、なるほど、彼らにはこんな風にみえているのか、と納得したり。         

                 ー「他人の目」を借りる

 

 他人がほめた途端いつも食べていた魚肉ソーセージが「いいもの」に思えてきた、という感覚はよく分かる。テルマエロマエの面白さを伝えるには、こうやればいいのか・こうすればよかったのか。やられたー、とか言ってはしゃぐ。自分たちがふだん使っているものが、遥か昔の異国の友人に大喜びされたうれしさ。それは辺りをきちんと見渡せば、身近に転がっているうれしさだ。穂村弘は、その視点をきちんと身体に飼い慣らし、自在に披露できるひとだ。いいな。

 そして俺は短絡的に、外国人に日本文化について尋ねてまわりたくさん自国を褒めてもらおうとするタイプの番組を想う。

 

 武田百合子の『日日雑記』も昨日からめくっているので、抜き書きする。

 

 夜、六時半からS氏の仕事の打ち上げ会。安土桃山風の豪華な料理屋で、便所にさえ畳が敷いてあった。刺身、天ぷら、そのほか日本料理いろいろを食べ。ビールを沢山飲んで面白かった。奥さんが重病で死ぬかもしれないというのに来てしまったKさんは、お酒をちょっと飲んだだけでアレヨアレヨという間に酔払ってしまい。手の先から電波が出るなどといって、あの人この人の背中をさすったりし、そのうちにいなくなったと思ったら便所に寝ていた。二次会も新宿で、みんな楽しそうだった。あんまり楽しいと何か失くす。S氏は眼鏡を失くし、Nさんは一万円札を三枚失くしたそうだ。私は何も失くさなかったが、二軒目の店を出たあと、どのようにして帰ってきたのかーー。気がついたらわが家の中に佇っていたので、急いで寝た。

 翌る朝、朦朧状態の脳の底から、多分隣に坐っていた人だろう、知らない誰かの声だけが泡玉になって浮き上ってくる。(あなた、山賊のようにお笑いになられますですね。)私は山賊のように笑っていたらしい。鼠色の気持になる。

                     ー『日日雑記』

 

 安土桃山風の豪華な料理、ってのが面白い。冷ややかな目線が頼もしい。ああ、この書き手は信頼できるな、って思ってしまう。一万円札を三枚。三万円ではなくて、参萬圓でもない。一万円札を三枚と云われると、よりお札の質感がリアルになる。こんな風に書かれたら恥ずかしい。僕はN氏のように酔っ払って三万なくしたら、ばかだなって笑い飛ばされたい。

 

もし私がオールナイトニッポンのパーソナリティになったら、きっと最初は木曜二部の枠を担当することになるんだと予想しながら、まどろみ、二十五時前就寝。