周辺幻

沖の監視

音楽・映画・読書

不安である。日曜日の夕方にさしかかると、すっかり参っている。

 みんなどうやってこの不安に対処しているんだろう。不思議で仕方ない。不安で仕方ない。

 おそらくは、僕が感じている不安を、形は違えど、周りも同様に感じているには違いない。そうでなければ、今までの交流録のひとつひとつが全て夢になってしまう。不安がなければ、人じゃない。少なくとも、僕がイメージする人間像とはかけ離れているものだ。

 僕の不安の対処法は、どうやら不安というものが周辺にあるなあと気づき始めた15歳の頃から変わりなく、音楽・映画・読書である。

 中でもいちばん僕を不安の沼地のような場所から引き摺り出してくれたのは音楽で、命乞いをするように息をするようにブルーハーツスピッツを何度も何度も聞いてきた。音楽が終われば、一時的に凍結した不安はすぐに融解するものの、その一時的な凍結効果こそ何より求めていたものだ。瞬間的にハイになれたら、何度も何度もそれを味わえばいい。かくいう今もThe mamas & papasの『California Dreami'n』をspotifyで流し現実から避難している。

 音楽には即効性がある。便利だから、好き。

 薬にも、すぐに効き目があるものと何日か経過してからじわじわ効いてくるタイプがあるように、音楽・映画・読書にも効き目のタイムラグがあり、それらは異なる。音楽はかなり効き目が早く、読書は遅い。映画は場合によるけど、その中間って感じ。

 嫌なことが起き、不安が突如現出した時は、まずは即効性治療のため音楽。イヤホンを耳に装着し、速やかに音量を最大に設定。危なかった。生身の現実の音は、鋭利で、致死量の毒を持つ。だから僕のプレイリストは、開始一秒でギター・ベース・ドラムが流れ込むイントロの曲が多い。紅白で披露されたsuperflyの『フレア』のように、アカペラで始まり、だんだんと盛り上がってサビでアンサンブルが炸裂するような曲では、美しいボーカルの隙間を縫い、現実音が流れ込んでくる可能性がある。僕の処方薬として求められるのは、音の美しさよりうるささなのだ。耳をつんざくうるささ。洗練より雑味。スピード&パワー、優しさの洪水。無論、わざわざ断りを入れることもなく、フレアは素晴らしい楽曲である。

 映画は、暗闇の中で画面に注視するしかない環境が頼もしい(映画館を前提として話しています)。『時計仕掛けのオレンジ』で、不良の青年を善人に転生させるため暴力映像を四六時中強制的に観させるこわいシーンがあったが、映画という芸術は一種の拘束である。「昼間、映画館へ駆け込む奴は弱虫だ」と言ったのは確か太宰治だったが、分からなくもない。現実の迫力が、昼間の太陽が、我々は怖くてならない。一種の逃避行として、映画館へ人は駆ける。「ここではないどこか」へ、行きたい。太宰が生きた時代では映画産業が登坂で、スマートフォンで気軽に映画をつまみ食いできる現在とは、大分ニュアンスが変わってくるけれども。

 処方薬の話に戻すと、お気軽にスピーディーに提供できるわけではないのが、映画の欠点である。千八百円(おとな料金)は安くないし、都会ならまだしも田舎都市では映画館へ行くまでの一時間は長すぎる。その間に、現実に蝕まれては元も子もない。だから、音楽を聞きつつ映画館へ向かうのが、逃避の基本的なフローチャートとなる。

 最後に、読書。

 これは前2つの処方薬と大きく異なるところがある。鑑賞の姿勢である。

 音楽も映画も、セッティングさえしてしまえば、あとは受け身で良い。音楽なら目を閉じていてもいい。映画は座っているだけでいい。あとは、鑑賞者の身体へ作品側から飛び込んできてくれる。

 しかし、読書はページをめくり(紙の本の場合)文字を目で追っていかなければならない。映画も、目で画面を追っていかねばならないが、視点が固定されている分だけ、「受容」感は高まる。何より、目で追っているだけで映画はストーリーの大まかな流れは分かるけれど、読書は目で追っているだけではそこに何が書いているのか分からないことがしばしばある。読書は思考を促す行為だ。聞いてるだけ、見てるだけでは、読めないのだ。それが、しんどい。僕はページをめくりながら、印刷された黒い模様の列を目で追っているだけの状態にしばし陥る。

 不安から逃げるために手に取っているのに、患者に思考を促すなんて何事だ。

 むかつく。

 

 冒頭の投げかけに戻る。

 僕はどうやってみんな不安に対処しているんだろうと問いました。でも本当はすでに答えは出ている。僕も含めてみんな不安と同居しているのだ。生きている限り、不安を抹消することは出来ない。手提げ袋のように不安を抱え、なんとなくそれにものを詰めてみたりくしゃくしゃにしたり丸めて一旦ポケットにしまってみたりして、うまいこと不安と付き合っているのだ。

 けれども、その上で、僕は不安の抹消を諦め切れないでいる。傲慢だと思う。不安の相対で安心があるのなら、安心を冒涜している感情かもしれない。しかし、僕は単純に不安から逃れてみたい。そういう状態を体験してみたい。

 個人の不安が宇宙から抹消され、完膚なきまでになくなってしまう。そんな瞬間を十五歳の頃から待ち望んでいるし、どうやらその手がかりは、音楽・映画・読書にある気がしてならないのだ。

 

 

A Hard Day's Night (Remastered 2009)