緩慢な敗北
タイトルを「一時撤退」にしようかとも、悩みましたが、敗北で間違いありません。
だいたい、三年前くらいから、私は「好き」という感情に対抗しようとあがいてまいりました。
?どういうこと。
説明します。
きっかけは、お気に入りのバンドの映像をYouTubeで延々と見ている時のこと。そのコメント欄。
「大好き、なんというか、その一言に尽きます。」
「この曲がこの時代に生まれてきて良かった。大切な人に感謝しようと思えた」
「夏の日の午後にラムネを飲んでいる時のような淡い記憶が立ち上った。」
「◯◯は天才です」
イヤホンから音楽を流しつつ、絶賛のコメントをスクロールしていると、
私は夏の午後の草原のスコールの雷のような、ぴりりりりりりりとした激しい苛立ちを何故か覚えたのでした。理由はわかりません。真意も、ありません。
まともな頭で考えれば、自分が好きなバンドの映像がたくさんの人に閲覧され、賛美され、支持を受けて、暖かく優しい言葉で応援を受けているというのは、どう考えても歓迎すべきことだし、少なくともぴりりりりりりり、とかそういうのは人として間違っているぞと悲しくなりました。
にしても、じゃあなぜ、気に入らなかったのだろう?
褒め言葉の巧拙とか、そういうものかと初めは思っていたけれど、いや、もっと深いところにぴりりりりのルーツはあるかと感じて、そうなると根がストーカー体質で執拗にできている私は、その感情の正体を捕まえようと、「好き」なるものの恐ろしさを考えるようになりました。
とはいうものの、「好き」という感情は、ほんとうに様々な局面でわれわれを救っている事実で溢れんばかり。
過去に読んだ本の抜き書きを集めたカードがあって、そこから反証の何か武器はないかと久しぶりに読み返すと、太宰治の御伽草紙から「好き嫌いは理屈じゃないんだ。あなたに助けられたから好きというわけでもないし、あなたが風流人だから好きというのでもない。ただ、ふっと好きなんだ」というのを発見して、やっぱり好きということについて、太宰も言及してるんじゃないかとまごついたり。
「なにかを好きだということを精一杯主張している人って、気持ち悪くない?例えば、椅子職人がいてさ、私は椅子が大好きで、幼稚園の頃からすごく椅子について惹かれるものがあって…うまくいえないんですけど、気がついたら自然と椅子をつくっていたんですね。みたいな経験談って、精神的にむず痒くならない?」
と、最大の味方であるお母さんに、同意を得ようとすると「難しく考えすぎ。いいことじゃないの、それ」と喝破されたり。
ただ、解法への筋道はある。御伽草紙の亀が「好き嫌い」と言ったように、「好き」という感情は「嫌い」という感情とセットで使われがち。ここが「好意」という感情を破壊する糸口だと思った。
情欲を断ち切ることは、生命を断ち切るよりもむずかしいものだ。この世では人間は殺害と愛欲に時を過ごすのだ。おまけにそれを同時に行う。
「おまえが憎い!」か「おまえが好きだ!」か。
(セリーヌ『夜の果てへの旅』より)
「それはな、人間の中に『好き』という感情があるからだ。そんなものがあるから、好きなものを他人から奪ってしまう。また、好きな物を奪った奴を憎んでしまう。ホラ、自分の恋人をレイプした奴を『殺したい』って思うだろ?
(西野亮廣『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』より)
というわけで、
僕が動画のコメント欄に感じたぴりりりりりの正体をむりに明かそうとするならば、こうなる。
「好き」という感情は「嫌い」という感情と表裏一体である。
「嫌い」であることを表明する時は、誰かを傷つけたり怒らせたりはしないかと、配慮があるはずなのに、
「好き」を表明する時に限っては、その配慮をないがしろにしている(傾向が見られる)。
「好き」=「善なるもの」という図式があまりに一般化していることに、気持ち悪さを感じ、躊躇わずに「好き」をぶつける軽々しさに、ひやりとする。
とりあえずこのように結論づけ、勝った勝ったとなんとか自分をだましだまし屈服させて、知らぬ顔して、生きていたけど、
その実、敗北を感じる瞬間はめちゃくちゃたびたび山ほど訪れていました。
「みさ、アイス食べる?」
「うん、みさ、アイス好きなの」
ー地方銭湯で耳にした会話
これはたった一つの見聞にすぎないけれど、例を挙げたらきりがないし、この一つの例で僕の大風呂敷を戒めるには十分であると思います。好きという言葉は公用語として日常語として、町の幸福を司っている。先日、私はどうしても英語を話さなければならない場面で、口にできたのは「what`s up?」と「I like reading novels」ぐらいだった。
「LIKE」「LOVE」を取り上げられたら、私の1パーセントの英会話は、0、01パーセントまで質が落ちてしまう。話すことがなくなるからだ。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とゴダールもウィドケンシュタインのアフォリズムを映画冒頭で引用したけど、この言葉を言い換えれば「語れることについては、語っておこうか」とでもなり、語れることというのは、人は好きなものだったりするのである。(「バラエティ番組大好き芸人」の収録はめちゃくちゃ推したという端的な事実)
ヘイトスピーチのように嫌いなものについても、人は語りたくなるけど…悪口を言った後の、あの背骨の疲れはなんなんだ。
良い気持ちになりたいから人は好きなことについて考えるし、話すし、YouTubeのコメント欄に書き込んだりする。良い気持ちになっている人を、叩き潰すような真似をするなんて、いったいぜんたいなんのためになるのだ?あの少女はアイスが好きで、お父さんは娘が美味しそうにアイスを食べているのを見ているのが好き。それだけなのだ。
ただ、私の違和感のポイントは「好きなことで、生きていく。」というYouTubeの名キャッチコピーにも代表される、あの全能感にあるのでした。近年、ますます「好き」勢力が拡大して強大化している気がします。個人で、いろいろ発信できる時代だし。
好きという感情は人間が保持するなかでも、最上の柔らかな部分であり、それをみだりに振り回すことは危ないよ、ってことを多分僕の心はあの時警告したかったのだろう。別に、何かを強烈に好きでなくとも、いいじゃん。それよりも、発信に欲情して、無理やり「好き」という感情を作成しようとする工夫の方が恐ろしい(最終弁論。理解されず)
実体がないものについて、喧嘩をふっかけ、相手にされず一人負けたとごちるのは、滑稽で哀れとしか言いようがないんですけど、きっと僕はそういうのが好きでしょうがないんです。負けました。